玉川上水 名前の由来は?

「玉川上水」の名前の由来について。

玉川=多摩川?

とってもシンプルに、「多摩川」から引かれた「上水」だから、ということで間違いないと思います。*1

ではなぜ、「多摩川上水」表記ではないのか。
これも、単に漢字表記のゆれと考えてよさそうです。

現在の「多摩川」も、江戸時代の文献では「玉川」表記になっていることがあります
逆に、明治期の記録でも「多摩川上水」という表記が見つかることもあります。

そもそも、地名や人名に「正しい漢字がある、正しい表記がある」と考えるのは現代人の発想。
現代社会では業務上、管理上の都合などで、表記がぶれぶれでは困ってしまいますが、大昔の人名、地名の漢字表記はかなり自由なものだったようです。


まれに、「玉川兄弟がつくったので玉川上水と名付けられた」というガセが見られますが、順序が違います。玉川上水開削の功績が認められて、庄右衛門・清右衛門兄弟に玉川姓が与えられたのです。


↑玉川上水のことをやさしく勉強したいならこれを読めば間違いなし!
玉川上水―親と子の歴史散歩 (多摩郷土文庫)



飲み水を江戸まで運んだ水路

さて、「上水」のほうですが、生活排水ではなく飲み水として使える水=上水を江戸まで運んだ水路という意味です。
「上水路」や「上水道」のほうが正しい感じもしますが、慣例的に「上水」だけで水路そのものを意味するようになっています。(神田上水千川上水なども同様。)


現在でも、羽村から小平監視所までは飲水を運ぶ現役の水路として使われていることは、意外と知られていないのかもしれません。もちろん、玉川上水に関心を持っている方はみな知っていることですが...



玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩



*1 断定できないのは、「多摩川から水を取り入れたので玉川上水と名付けた」とする資料がないと思われるためです。当たり前すぎてわざわざ記録に残していない可能性が。一応調査中です。

見沼たんぼと玉川上水

玉川上水ネットの集まりで、見沼たんぼについての講演を聞く機会がありました。



見沼たんぼは第6回プロジェクト未来遺産に登録されています。
「埼玉県川口市からさいたま市の市街地の東側に広がる1,260ヘクタールの田園地域と、その周辺に広がる大規模な田園緑地。」

玉川上水との共通点もいくつかあり、その保全活動のあり方はたいへん興味深いものでした。

見沼たんぼのことは、以前から気になっていました。
私が今年度資格を取得した、江戸文化歴史検定2級。その公式テキストで、見沼たんぼが大きく取り上げられていたためです。

さて、玉川上水との共通点ですが、まずはどちらも江戸時代初期に伊奈忠治が関わっていること。
治水といえば伊奈忠治
もうひとつの共通点は、享保の新田開発で周囲が大きく発達を遂げたことです。


ただ、今回のお話を聞いて、現在の保全活動のあり方が玉川上水と大きく異なっている点がありました。
玉川上水は2003年に国の史跡に指定されるような段階まで進んでいるものの、その保全活動は水路とその脇のごく狭い緑道部分に限定されてしまっています
見沼たんぼにおける玉川上水に相当する部分は「見沼代用水」です。しかし、用水部分に限らず、広く周囲の田んぼも含めた保全活動が進められています。これがすごい。




近年、玉川上水周辺の宅地化はさらに進んでいます
問題は畑地が建物に変わってしまうこと。生産緑地に指定されている畑もありますが、そうではない部分は着実に住宅に変わりつつあります。
これが野鳥をはじめとする野生動物の生態に与える影響はとても大きい。周囲に畑地がある上で、玉川上水の林と水場があるから生息している生き物がたくさんいます

とはいっても、周囲の土地はあくまで土地所有者のものですから、基本的には外部の人間には止める権利もなにもありません。
それに「良い環境の良い家に住みたい!」という欲求がどこかにあれば、潜在的に開発に加担しているようなものだと私は考えます。なんでもかんでも「宅地化反対」するのはどうしても矛盾が出てきてしまうと思うのです。

ただ、「玉川上水とその分水網」をなんらかの保全プロジェクトに巻き込むことができて、周囲の農家に対し、宅地化するよりも緑地を残すほうがお得な方法を示すことができれば、いろいろな可能性があるかも!というのが今回得たヒント。まだまだ具体的な案はまったく定まりませんが。

あせらずゆったり急いで、自然の勉強、保全の勉強を続けましょう!

根川緑道散策

立川市、根川緑道です。

現在、緑道として整備されているここは、もともと立川崖線の湧水が流れる小川でした。
1893年(明治26年)に残堀川が合流して水量が増加。
1935年(昭和10年)には氾濫防止の改修工事とともに桜が植えられ、名所となりました。

しかし、その後もくりかえし氾濫が起きたために、1972年(昭和47年)に残堀川の流路を変更。
現在のように直接多摩川へ流れる形となりました。

川としての役目を失い、一部を埋め立てられた根川ですが、1973、74年(昭和48、49年)に整備が行われ、根川緑道となりました。
その頃には井戸水と下水道砂濾過水により、わずかに流れていた水。

現在は、もう少し下流にある錦町下水処理場の高度処理水を、たっぷり流すことができるようになっています。
玉川上水や渋谷川などの清流復活事業と同じような仕組みですね。
下水の処理水とはいえ、水が流れる環境は大事です。


根川緑道を良くする会」が存在し、このあたりに手入れをしているようです。
機会があったら活動に参加してみたいな。


小川らしい景色が続きます。

初日さす 松はむさし野に のこる松
     水原 秋桜子(みずはら しゅうおうし)
昭和初期の武蔵野はどんな景色だったのか。
アカマツは雑木林の構成種ではあるのですが、玉川上水緑道では少なくなっています。


宅地に囲まれた小さな水路ですが、コサギやカモ類はやってきます。多摩川と行き来している個体の可能性もありますね。


水上四阿。水の上のあずまやです。テーブルをのぞくと水流が。


緑道の途中で南へ向かうと、錦町下水処理場にたどりつきます。
関係者以外立ち入り禁止。アポ無し見学なんてことはできません。
すぐそばの多摩川へもここからの処理水を流しています。


錦町下水処理場の外側を進んでいくと見つかる日野の渡し碑
ぜひ見ておきたいこちらの石碑。
日野の渡しの出来たのは いつの頃だか誰も知らない
江戸時代中期貞享年間 この地に渡しが移されたことは 確かであろう
かつて信濃甲斐相模への人々は この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い
江戸に向かう人々は 江戸に着いたと思ったという

裏側を見ると寄付者の名がずらり。
「石碑を見かけたら裏側を見る」ことは基本中の基本である!表以上の情報が満載。
たましんけやき出版や、立川民俗の会、砂川昌平氏などなど知っている名前も並んでいます。


そのすぐそばに、いくつか見つかる馬頭観音の石碑も見逃せません。
すべてこの場所にあったものではなくて、後に集められたのだと推測しますが...

古い時代の空気を醸し出していますが、それぞれ大正十三年、昭和四年、昭和十三年と刻まれています。比較的新しい。



多摩モノレール 柴崎体育館駅が最寄り駅。駅を降りて南へ歩けばすぐです。
西へ進むと、残堀川との分岐点へ。


さて、花も葉もほとんど散っている時期に訪れてしまった根川緑道ですが、やはりいちばん美しいのは春です。

残念ながら手元にその写真がないのですが、立川市のホームページ内、根川緑道の紹介ページで「このページに掲載している画像6点については、自由にご利用いただけます。転載等にあたってご連絡は不要です。」とのこと!

というわけで、最後に春の根川緑道の写真を。

(立川市ホームページより)

立川市 憩いの場と立川村十二景

立川駅から北へ徒歩数分歩いたところに、「市制50周年記念 憩いの場」があります。(1991年オープン)




立川駅北口から出て、大きな通りを直進していくと、やがて左手に多摩信用金庫が見えます。
そこからさらに横断歩道を渡るとここにたどり着きます。


ちょっとした休むスペースもありますが...


目玉は「立川村十二景」の展示です。
 立川市十二景は、市内曙町に居住していた故馬場吉蔵氏が、立川市がまだ村であった明治三十年代の、村内の主要な十二か所を、昭和の初期に水彩画に描き上げたものです。 この十二景は、風景ばかりでなく、当時の風俗もよく伝えています。
展示解説より。

もちろんここに展示されているものは実物ではなく、印刷です。
実物は市指定有形文化財に登録されていて、歴史民俗資料館に保管されています
ただ、歴史民俗資料館は残念ながら若干アクセスが不便。市の歴史や民俗にしっかりと興味を持っている人しかなかなか足を運ばない場所になってしまっていると思います。

それが、駅前の憩いの場にこのような形で見られるようになっているのはすばらしい!
それぞれの絵の下に詳細な解説もついていて、美術館のように楽しめます


多摩川近くの絵もいくつかあり、当時の様子を想像するための貴重な資料となっています。
江戸名所百景」等のいわゆる名所絵の浮世絵をイメージして作られているようですが、立川村十二景は版画ではなく水彩画。水彩タッチを活かした水の表現がきれいです。

 
立川駅前を描いたこちらの絵、馬車に乗っているのはなんと砂川源五右衛門だそうです。
しかし謎が生まれてしまった。解説によると、明治36年頃を描いたものとのことで、筆者の説明によると「当時北多摩郡長を勤めていた砂川源五右衛門氏で、砂川の自宅から立川までくるのに、決まってこの馬車で立川駅に乗りつけた」そうなんですが、砂川源五右衛門氏が北多摩郡長だったのは明治11年から9か年のはず。うーむ。



一部破損がとても残念。早めに修復してほしいものです。