残堀川下流を歩く

残堀川の昭和記念公園南端から多摩川合流地点まで歩きました。

少し前に、狭山池から玉川上水交差地点までは歩いています。
柴崎分水を歩いた時に玉川上水交差地点から昭和記念公園南端までは調査しているので、これで残堀川全域をとりあえず踏破したことになります。


スタート地点はこのあたり。

北を向いて昭和記念公園内の残堀川を見たところ。
残念ながらほとんど干上がっていています。


南へ進んでいくのも一苦労。脇に遊歩道がないため、少し進んでは川に近づき、また進んで川に近づき、と繰り返すことになります。


しばらく進むと、やっと両脇を通れる道が現れます。
水はやはり干上がっている上、このあたりは完全に舗装されていて、まわりに樹木もありません。生き物の影は全くなし。


舗装された川がしばらく続きます。


奥多摩街道を越えたあたりで突然途切れます!
立川崖線にぶつかりました。ここで滝のように水が落ちる仕組みになっているようですが、それを正面から見ることはできません。


富士見町三丁目交差点を過ぎた辺りから東を見ると、ある程度その様子が分かります。
結局このあたりからは残堀川に近づけないので、富士見第二公園あたりから南下します。


崖より下の残堀川。このあたりから水量が安定しています。どこかの用水や湧水が流入しているのか、後で調べます。


カルガモやコガモ等、カモ類もこのあたりから見られるようになります。


電線にとまるコサギ。どういう感じで掴んでいるのか気になっていたので撮影。


多摩川に向けて南東に進んでいきます。このあたりは遊歩道も整備されており、桜(ほぼソメイヨシノと思われる)並木となっています。
ゴミの多さは気になるものの、しっかり川らしくなっています。


JR中央本線線路の下をくぐります。立川と日野の間ですね。


こんなところにもとまるカワセミ
残堀川ではカワセミの姿が高頻度で見られます。鳴き声もよく聞こえます。
干上がっていることが多く、ゴミも多い川ではあるのですが、カワセミにはなかなか快適らしい。


さらに進むと、分岐点。左は根川緑道につながります。
ある時期までは、この根川緑道の方向に残堀川がつながっていたということです。
氾濫対策のため、直接多摩川に注ぐようになっているのが現在の流れです。


多摩川合流地点が近づいてきました。


ざんぼりゆうほばし(残堀遊歩橋)。市の花コブシ。
ボロボロになってしまっていてなんだか悲しい。


ついに多摩川に合流!このあたりは流れのそばに降りることもできます。


消波ブロックにジョウビタキ
あまり見ない姿ですが、水浴びをしていたんでしょうか。


多摩川にはあいかわらず、カワウ、コサギ、ダイサギのグループに、カモ類の群れが大勢います。


おまけとして、別の時期の多摩川、残堀川の写真を掲載。

(撮影 2013年5月) 多摩川


(撮影 2013年5月) 残堀川 多摩川合流地点近く


野鳥メモ
・残堀川
アカハラ
シジュウカラ
スズメ
ヒヨドリ
ムクドリ
カルガモ
コガモ
コサギ
セグロセキレイ
キセキレイ
ツグミ
カワセミ

・合流地点近く&多摩川
ホオジロ
カルガモ
コガモ
カイツブリ
カワウ
コサギ
ダイサギ
ムクドリ群れ
セグロセキレイ
カワセミ
ジョウビタキ
ツグミ

残堀川の遊歩道には石の碁盤と石の将棋盤が

残堀川の遊歩道に、碁盤、将棋盤として使える石のテーブルがあります!



石のテーブルに、マス目が彫られた形になっています。
碁石、将棋の駒さえ持ってきたらここでのんびり楽しめますね。

実際に遊んでいるのを見かけたことはまだありませんが、いつも綺麗に保たれています。


玉川上水と残堀川との交差地点。位置としてはこのあたり。

玉川上水水路よりも深い位置を流れる現在の残堀川ですが、交差地点では玉川上水がさらにしたを通ります!(サイフォンの原理を利用した「ふせこし」)
それもこのあたりの見所。

砂川源五右衛門

砂川源五右衛門の生い立ち・経歴など



砂川 源五右衛門(すながわ げんごえもん / げんごうえもん 天保9年(1838年) - 明治44年(1911年))

砂川源五右衛門の生涯

北多摩郡砂川村(現立川市)の名主の家に生まれる。源五右衛門は通称*1であり、諱は泰忠。旧姓は村野*2
立川の昔話にも登場し、身の丈六尺(180cm以上)、体重二十七貫(約100kg)という巨漢。


小さい頃から武術を好み、江戸麹町番町にあった斉藤徳心斎のもとに入門。神道無念流の免許皆伝となったが、23歳の時(1861年頃?)、さらに上でを磨くため武者修行に出た。(立川のむかし話)

1863年(文久三年)村民を代表して中山道蕨宿への助郷を免除して欲しいとの願書を道中奉行に提出。(砂川の歴史)
1863年時点で間違いなく名主だったようである。

1864年3月、武者修行として房州銚子の宿へ。天狗党と疑われ、襲撃される。

1867年 玉川上水 通船願いを提出。
1868年 年号が明治となる。
1870(明治3年)〜1872(明治5年)の間、通船。
玉川上水の通船に関わったのは30歳前後ということになる。


明治維新の頃(詳細な時期は不明)、砂川に強盗が入った。村民が逃げた強盗を捜索していると、あやしい男が見つかったため捕らえた。実はその男は百姓姿に変装して農村の生活ぶりを見ていた三条実美公だったのだが、源五右衛門はひと目見て、強盗でないことを見ぬいた。それがきっかけで三条実美との交流が生まれたという。
通船の実現、砂川姓への改姓も三条実美との関わりが関係あるとも伝えられている。(立川のむかし話)


1878年、政府は郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の「三新法」を発令。これにより「三多摩」が出現。
北多摩郡長には砂川源五右衛門、南多摩郡長には佐藤彦五郎、西多摩郡長には細谷五郎右衛門がそれぞれ初代郡長として任命された。
北多摩郡の庁舎は府中、南多摩郡の庁舎は八王子、西多摩郡の庁舎は青梅に設けられた。砂川源五右衛門、佐藤彦五郎はそれぞれ毎日7〜8kmの道を通った。
砂川源五右衛門が腰に弁当をぶら下げて大股で闊歩する姿が評判になったという。(未完の「多摩共和国」)

任命されたのは明治11年(1878年)11月18日から9カ年。県令野村靖の知遇を得ていたためといわれる。40歳〜50歳ごろということになる。
自宅から郡役所までも3里(=約12km)を徒歩で通った
毎朝脚絆に草鞋履きで麦飯の弁当を持ってでかけた。(府中市史 中巻)
あまりの質素さに、郡役所の吏員たつが閉口して、郡長に徒歩通勤をやめてもらいたいと陳情に及び、以降は人力車で通勤するようになったという。(立川市史 下巻)

「北多摩郡の郡長」といえば、府中の人々にとっても地元北多摩郡の砂川源五右衛門であって、それ以外の人ではありえない、というような存在である。(府中市史 中巻)

明治20年の終わりに、県庁の力によって更迭される。しかし、北多摩と結びつきの強かった源五右衛門に対し、その後郡長となった渡辺管吾は北多摩と何のゆかりもない人物だったため、源右衛門氏の復職を望む声も多かった。

1881年1月5日、北多摩郡の有志を集めて民権結社「自治改進党」を結成。砂川源五右衛門は社長に就任
自由党が結成されると解散し、砂川源五右衛門も自由党員となった

衆議院議員に立候補したこともあったが敗北。→どのタイミングが不明。

1889年(明治22年)、甲武鉄道が立川駅まで開通。立川駅の駅舎は北側に作られたが、これには甲武鉄道の株主だった砂川源五右衛門の力によるものもあったという。
(現在では大きく発展している立川駅北側だが、当時は桑畑ばかりで家一軒もないような場所だったが、砂川村から物資や人を運ぶのには北側のほうが便利だった。)(郷土史講座 立川の歴史散歩)



*1 といっても、北多摩郡長の職についてからも「砂川源五右衛門」で通していたようである。
*2 「旧姓」という考え方でいいのか、調査不足。幕末(1848年=嘉永元年)時点の御鷹場案内役に関する記録では、「村野源五右衛門」表記になっている。

******

砂川源五右衛門について分かったことをまとめました。

大きな流れとしては、
・〜30歳?→武術の腕を磨く。武者修行にも。水戸の天狗党とも関わりがあった?
・30歳前後→砂川村名主として、玉川上水通船を実現させる
・40歳〜50歳→北多摩郡長として活躍。併行して自治改進党社長、自由党員として自由民権運動に関わる

こんなところでしょうか。

前に「砂川源五右衛門さんを調べたい」の記事で書いたように、なかなかまとまった情報がなく、調べるのには苦労しました。
ポイントは、砂川源五右衛門の住んでいた砂川村、立川市関係の資料を探すのではなく、自由民権運動関連や、府中市(北多摩郡庁舎があった)についての資料を探すことでした。


自信がないものの、源五右衛門の父が「栄左衛門(榮左衛門)」ということでほぼ間違いなさそう。砂川の阿豆佐味天神社に「願主 村野榮左衛門」と記された狛犬が現存しています。

源五右衛門分水の開設が本当に1910年(明治43年)であるのか再調査したい。これが正しいのならば、砂川源五右衛門が亡くなる一年前に作られたことになる。
→やはり1910年であっている。源五右衛門分水についてのパネルを見ると、「明治初めの名主家当主の名前にちなんだ『源五右衛門分水』の取水口」とある。よく考えたら「砂川源五右衛門が作った」とは書いていない。


立川駅周辺に馬車で訪れる姿も有名。これはどの時期なんだろうか?調査中。
作者の説明では明治36年。もう高齢の時期。

明治2年(1869年)か5年(1872年)のどちらかに(調べると二つの年が出てきてしまうので情報を見定めたい)、「名主制の廃止」が行われている。ということは人生の後半は「名主」ではなかった?

諱が泰忠であることも今回はじめて知りました。砂川泰忠
"砂川源五右衛門"で検索しても出てこなかった情報が、"砂川泰忠"で検索するとわずかに出てきます。
今のところ、Wikipediaの記事も登録されていない砂川源五右衛門ですが、コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)に砂川泰忠の名前で掲載されている!

ちなみに、源五右衛門の読み方について正式には「げんごうえもん」となっていますが、会話の中では「げんごえもん」と発音してしまっても問題ないと思われます。
たとえば石川五右衛門の「五右衛門」を、「ごうえもん」とはほとんど読まないですよね。

砂川源五右衛門の写真はどの資料で見られるか?

『府中市史 中巻』にハッキリとした写真あり。郡長の頃なのか、わりと高齢に見える。
『郷土たちかわ』に、なんとちょんまげ姿の写真が掲載されています。
『多摩の民権家と結社』にも比較的若い頃と思われる写真が掲載。こちらの写真は、実際には3人の集合写真になっているものを切り取ったもの。
→明治12年に田村半十郎、指田茂十郎、砂川源五右衛門の3人の県議会議員で撮影したもの。 『福生市史 下巻』399ページ等で見られる。『福生市史 下巻』はwebでの閲覧も可能

まだまだ探すと見つかりそうです。
とにかく特徴的なのは、太い眉毛と彫りの深い顔。

******

参考文献
府中市史 中巻
郷土たちかわ
佐藤文明『未完の「多摩共和国」新選組と民権の郷』
町田市立自由民権資料館『多摩の民権家と結社』
ほか

殿ケ谷新田の阿豆佐味天神社

前に阿豆佐味天神社について書いた時、「殿ケ谷の阿豆佐味天神社」というタイトルにしたのでちょっとややこしい。
「瑞穂町の阿豆佐味天神社」とでもしたほうが良かったのかもしれません。
この記事で紹介するのは、立川市内、かつて殿ケ谷新田と呼ばれていた場所に鎮座する阿豆佐味天神社です。

おおもとは狭山丘陵南麓、殿ヶ谷村に鎮座していた阿豆佐味天神社(現 瑞穂町)
そこから、砂川(現 立川市)、殿ケ谷新田(現 立川市)に勧請して新しい村の鎮守とした、というわけですね。

創建は享保3年(1718年)ごろ。殿ケ谷新田も、享保新田のひとつなので、江戸中期の開拓の際に勧請されたと。


(撮影 2015年12月)
植えられている木は少なく、神社にしては明るくすっきりとした空間になっています。


現在の住所は立川市西砂町。


 
境内の愛宕社。この他には稲荷社もあり。



「殿ケ谷分水跡碑」は比較的最近つくられたものです。
玉川上水より殿ケ谷分水をたどっていくと、途中でこの神社の前を通ります。

 
このあたりの地域ではおなじみ、江戸時代に流行した馬頭観音庚申塔
どちらも玉垣の外にあります。もしかしたら、昔からこの位置にあったわけではないのかも。