殿ヶ谷分水を歩く

朝9:30に拝島駅集合!

グループで殿ヶ谷分水を歩きました。


拝島駅北口を出ると、玉川上水はすぐそこです。


「玉川上水緑道」の碑が!(文字が若干読みにくい...)

駅から遠くない場所に殿ヶ谷分水の分水口はあります。

実はもう、殿ヶ谷分水は使用されていないのです。
かろうじて分水口は残っていますが、もう口を開けることもできない状態かもしれません。

今回は、「かつて殿ヶ谷分水が流れていた場所」を歩いていったわけです。


南側にも分水口。こちらは拝島分水の入り口。
現在でも使われています。


水路を埋めて作った道路は、何か独特の雰囲気があります。



歩いていて気持がいい!緑の多い散歩道になっています。


殿ケ谷緑道」。
かつて殿ヶ谷分水だった場所はそんな名前が付いています。


途中に神明社中里新田の鎮守さまだったと思われますが、横田基地の都合で何度か移転しているようです。
由緒書や教育委員会の開設パネル等、何も設置されていないのが少し残念。
桜が多く植えられていたので、春にもまた来てみたいものです。



さらに歩けば阿豆佐味天神社
こちらは殿ヶ谷新田の鎮守さま。

ここにあるのが「殿ヶ谷分水跡碑」!
水路は残っていませんが、確かにここに殿ヶ谷分水があったことを実感できます。

  
神社の外には、おなじみ馬頭観音庚申塔

伊奈忠治に会ってきました

玉川上水開削にも大きく関わった伊奈家。
関東郡代、飛騨郡代としてもおなじみです。

数多く関東の治水工事を行いましたが、玉川上水開削工事の途中で惜しくも亡くなったのが、伊奈忠治(半十郎)

埼玉県川口市内、川口駅近くのショッピングセンター「キュポ・ラ*1内に銅像が設置されています。


じゃじゃーん!




し…渋い!


肖像画の残っていない玉川兄弟銅像は、歌舞伎役者をモデルにして作られたと言われていますが、この伊奈忠治像も同様に作られたものでしょうか。


しかし、建物1Fにぽつんと設置されている、この孤独感…。
どんな意図があるのか、不思議な場所に置いたものです。

伊奈忠治の死後は、子の伊奈忠克(半左衛門)が仕事を受け継ぎ、無事に玉川上水を完成させました。



今回、あまり出かけない方面へ電車に乗ったこともあり、一度乗り間違えてしまいました。

気が付くと王子駅。せっかくなので、駅を下りて、少し江戸散歩。(その後、川口駅へ向かったわけです。)


春には飛鳥山の桜が美しいこのあたり。
今回は王子稲荷へ。
たくさんの浮世絵に描かれてきた王子稲荷。
広重が名所江戸百景で描いた「大晦日の狐火」を再現する、「狐の行列」が今でも行われているそうです。一度は見てみたい!



名主の滝公園の男滝。


*1 階によっては図書館などの公共施設もあるようなので、ショッピングセンターという言い方はふさわしくないだろうか。総合施設?

たましん歴史・美術館『多摩の人・多摩の風景』

最終日にぎりぎり間に合いました。

『多摩のあゆみ』創刊40周年記念 多摩の人・多摩の風景
『多摩のあゆみ』の創刊40周年を記念し、多摩の歴史・風俗を物語る浮世絵、『多摩のあゆみ』の表紙を飾った作品などを展示します。

2015年 9月15日(火)~ 12月10日(木)
この『多摩のあゆみ』がまた、無料なのにすばらしい情報のつまった冊子なんですが...

さてさて、実は行くのも初めて、たましん歴史・美術館。



国立駅南口を出ると、もう目の前に見えています。
輝く「たましん」の文字

多摩信用金庫の国立支店6階が美術館スペースになっているのです。


今回の展示は「うつりゆく風景」と「多摩川の流れとともに」の二部構成。

「うつりゆく風景」は、倉田三郎氏の作品など、昭和の油画が中心でした。

昭和の多摩の風景を、絵画から知ることができるかな?という期待があったんですが、この期待は少し裏切られる。
当たり前のように写真のある時代ですからね。抽象性の高い油画が多かったです。
絵画作品としては十分に楽しめました。


「多摩川の流れとともに」では、多摩川関連の浮世絵を多数展示。
こういうテーマはなかなかないので貴重な機会。

それぞれの浮世絵は、特別にマイナーな作品というわけではないんですが、こうやって揃う機会はなかなかないかも、というセレクトでした。

小金井の記事でも紹介しましたが、広重の浮世絵や江戸名所図会から想像できる江戸時代の小金井は本当に美しい。

両側が車通りが比較的に多い道路になったことで、もうどうやっても土手でのんびり花見をする光景が取り戻せないというのはなんだかもったいないと思います。


今回の展示で発見したメモを。

・紫の花と武蔵野について
「紫の  ひともとゆゑに  武蔵野の  草はみながら  あはれとぞ見る」という大好きな和歌がある。これ以外にも紫の花と武蔵野について歌った和歌がいくつかあるようなので、調べたい。

・「玉川」の表記について
江戸時代の文化財には「多摩川」ではなく「玉川」表記が頻出する。
今回、明治期に描かれた「蒸気車往復 繁栄之図」1889年(明治22年)にも「玉川」表記がされていることを確認。では、ほぼ「多摩川」表記しかしなくなる境目はいつ頃だろうか?戦後?

・「古金井」の表記について
喜多川月麿の描いた「武蔵野古金井の橋」では小金井を「古金井」と表記している。歌麿ではない。喜多川月麿は喜多川歌麿の弟子。

新堀用水の胎内堀

胎内堀(たいないぼり)は、ほっこぬきたぬき堀などとも言われます。
トンネル型の水路のことです。

玉川上水から分かれる、新堀用水で今でも見ることができます。


玉川上水駅から東へ。途中小平監視所を通過します。
そのあたりから北側へ分岐しているのが新堀用水です。
(しばらくは暗渠のため見えません。)

新堀用水が掘られたのは1870年。
江戸時代ではなく、明治に入ってからのことです。
玉川上水北側にいくつもあった分水口を、この新堀用水に統合しました。
同じ時期に南側の分水口も砂川用水に統合されています。

しばらく東へ進むと見えてくる柵。そして空いている穴。


この穴をのぞいてみると…



確かに水が流れています!
このあたり、玉川上水本流に流れる水は、多摩川上流水再生センターで処理された下水の処理水なんですが、こちらの水路に流れる水は多摩川の水そのまま
小平監視所からそのままこちらへ流されているそうです。


2つめの穴。


3つめの穴。

このあたりの赤土は、水分を含むと粘り気が出てくるので、掘ったまま崩れる落ちることはないとのこと。
そのため、トンネル型の水路が成り立つのですね。
とはいえ、掘った時にたまる土を出す必要があります。
その、土を出すための穴がこれというわけですね。



4つめの穴。

柵がいつ頃作られたのかは分かりませんが、柵のなかった頃はかなり危険だったはずです。
落ちてしまったらそう簡単には抜けだせません。



トンネルの出口です。


ここからは、開いた水路として、玉川上水の脇を流れていきます。

そのまま進み、小川橋まで来たところにあるのがこの石橋供養塔。


「武州多摩郡小川村 世話人 小川・砂川 村中」とあります。