玉川上水と小金井の桜
(撮影 2015年3月 小金井市内の玉川上水の桜)
さて、小金井桜のルーツを遡って行くと、8代将軍徳川吉宗公(暴れん坊将軍としておなじみ)の時代にたどり着きます。
江戸中期ですね。
小金井橋付近の解説板から引用すると、
幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜麩側など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。とのこと。
桜の花に、水の解毒作用があると考えられていたという説もあります。当時、土手の雑草やゴミが水路に落ちないように細心の注意が払われていたようなのですが、桜の花びらに関しては、水路に落ちていくのをむしろ歓迎していたのかもしれません。
(撮影 2015年4月 桜樹接種碑 「さくら折るべからず」)
江戸後期に桜の名所して有名だったのは、上野、品川、墨堤、飛鳥山、そして小金井です。
そのほとんどは吉宗公の命により、植樹されていったもの。
徹底的な倹約方向に進みがちだった享保の改革。
溜まりがちなストレスを発散させる場所として「花見」という娯楽を用意したのだと考えられます。
上野や墨堤はともかく、品川、飛鳥山、小金井は江戸の中心からちょっとした距離があるというのもポイント。
しっかり歩いて体力を使うことも、やはりストレスの解消につながります。
苦労して辿り着いた先の桜はきっと格別だった。よーく考えられている!
人気のあった江戸後期の小金井桜は、多くの浮世絵や地誌に登場します。
天保年間には水野忠邦*1、そして13代将軍徳川家定公*2もこの桜を見に訪れています。
現在よりも間違いなく水量の多かった当時の玉川上水は、完全に「川」に見えます。
そして、現在のように放置された多くの樹木が鬱蒼と茂ることはなく、明るい並木道という雰囲気。
この頃描かれたいくつもの小金井の絵からイメージをつなぎあわせて、当時の様子を頭に思い浮かべてみると、その美しさに涙が出そうになります。
さて、時代が進み、1924年(大正13年)には小金井の桜が国の名勝に指定されます。
明治期に甲武鉄道が開通したことで、東京中心部からのアクセスもぐっと便利になっていました。
しかし、戦後には樹木の老化や周囲の都市化によって、徐々に衰えていってしまうのです。
小金井辺りの玉川上水緑道は、両脇が車通り多い車道になっているため排気ガスの影響も受けやすいのでしょう。
立川から小平にかけての静かな緑道と比べると、のんびり静かに散歩することは難しくなっています。
1954年(昭和29年)に小金井公園が開演すると、徐々に桜の名所としての中心地は公園内に移っていきます。
(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)
現在では小金井公園が「小金井桜」の伝統を受け継ぐ桜の名所として親しまれています。
そして、アクセスが若干不便*3なことが上手く機能しているのか、花見シーズン真っ盛りでも比較的落ち着いて桜を楽しむことができます。
(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)
これだけの桜の下に人の影がほとんど見えない。朝早くの小金井公園。
(撮影 2014年11月 小金井公園内の桜)
品種も豊富。冬桜系も多く植えられていて、秋冬にも花の咲く桜を見られます。
小金井桜が小金井公園内に受け継がれていったように、玉川上水の歴史や自然も、その時代に合った良い残し方・受け継ぎ方を考えていけたら、と思います。
*1 誰もが学校の授業で習う「天保の改革」を行ったその人である。改革が厳しすぎたため後に失脚。
*2 厳密には小金井を訪れた頃にはまだ将軍職ではない。世継の頃。
*3 北には西武線花小金井駅、南にはJR武蔵小金井駅 or 東小金井駅、どちらからも気軽に徒歩で行ける距離ではなく、多くの客はバスを利用する。徒歩の場合、武蔵小金井駅よりは東小金井駅の方が若干アクセスが良いとのこと。