日本野鳥の会 会誌『野鳥』昭和46年2月号 巻頭は「玉川上水の鳥」

日本野鳥の会の会誌『野鳥』昭和46年2月号を入手することができました。


目的は、玉川上水について書かれている記事。
しかし、分かっていたのは「玉川上水の鳥」というタイトルの記事があるという情報だけ。
「その当時(1971年)玉川上水に生息していた具体的な野鳥の情報があるかも!」と期待したのですが、残念ながらそれは無し。
そのかわり、その時期の玉川上水に関するとても質の高い文章が掲載されています。エッセイ寄り。

国木田独歩の『武蔵野』で描かれた玉川上水周辺の情景とその魅力ついての話からはじまり、その頃の玉川上水暗渠化、通水停止、道路化に対する批判となっています。


記事の終盤にこんな文が。
それを繁栄に導いた玉川上水でありながら今日まで国はおろか、都の文化財にも史蹟にも指定されてゐない。どうせ文化心のない役人共のすることだから、史蹟などに指定しては、あとの破壊が面倒になるといふ下心があったのかも知れない。
2003年(平成15年)8月に玉川上水は国の史跡に指定されました。
その頃の作者に教えてあげたいですね。


ところで、目次には「玉川上水の鳥」と書かれているのですが、本文ではタイトルが「玉川上水の小鳥」となっています。何か手違いがあったのか...


まだ中西悟堂先生がご健在の頃の日本野鳥の会。
その会誌はとても文学性が高く、専門的な内容となっています。
現在の会誌『野鳥』が、写真中心の「野鳥ファンクラブ」的な内容になってしまっているのは、仕方のない時代の流れでしょうか。

玉川上水 通船についての基礎メモ

1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間、玉川上水で通船が行われました。

たった2年間のことですが、商売に大きく絡んでいたこと、そしてすでに明治期に突入していることで、多くの資料が残っています。 資料の少ない江戸時代の玉川上水と比べると、逆に調べる大変さがありますが、まずは勉強のために基本的なことをまとめておきます。



・何のために通船が行われたのか?

多摩ー江戸間の荷物の運搬はかなり不便だったようで、馬に少量積んで少しずつ運ぶしかなかったようです。 江戸中期、玉川上水周辺で新田開発が行われ、生産物がぐっと増えました。 もしも玉川上水を利用して船で荷物を運ぶことができたら、かなり便利になります。 何度も通船願いは出されていたようですが、はじめてその願いが許されたのが明治初期。 砂川村の名主だった砂川源五右衛門もこの通船願いに大きく関わっていたようです。


・通船にあたって必要だったこと

さて実際に船を通すとなると、そう簡単にはいきません。 場所によっては水路の幅を広げる改修が必要であり、橋を高くすることも必須です。 単に船が通過するだけなら少し高くすればすみそうですが、上りの時には船に綱をつけて両岸から引っ張る必要があります。
砂川村で最大90cmほど橋を高くした記録もあるようです。
綱の引っ張り役はいったいどこを歩いたのか、考えながら玉川上水を散歩するのも楽しいものです。


・通船の実態など

船の大きさは長さ6間、幅5.2尺が多かったとのこと。
10.9m×1.6mの船が玉川上水を通行できたというのはなかなか信じられません。


ほとんどの船は荷物を運ぶためのものだったのですが、人を乗せる船もあったそうです。
青梅、東京間ということなので、青梅から羽村までは多摩川、そこからは玉川上水を通行したということでしょうか。

船が下るのは毎月5、9、25、29、25、29日。八王子で市が立った次の日。
江戸時代には現在のように曜日が日常的に使われていなかったので、毎月「4の付く日」、「8の付く日」、のような感じで定期的なイベントを行っていました。
明治初期なので、まだその名残があったのでしょう。
(新暦導入とともに曜日制が本格的に用いられるようになったのは1873年(明治6年)から。)


最盛期には100艘以上の船が行き来したとのこと。

参考文献
肥留間博 (1991)『玉川上水―親と子の歴史散歩』たましん地域文化財団
ほか

狭山茶はどこのお茶?

私は日本茶アドバイザー&日本茶検定1級の資格を持っており、日本茶の楽しみ方を伝えていくことも使命のひとつです!

さて、今回は玉川上水沿いの村とも関係のある、「狭山茶」の話題。

狭山茶と聞くと、埼玉県を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

たしかに、主な生産地は埼玉県内の入間市、所沢市や狭山市ですが、瑞穂町や東村山市内でも生産されています。(東京都内のものは「東京狭山茶」といわれる場合が多い。)

また、明治期に玉川上水沿いの砂川村(立川市)、小川村(小平市)でもお茶を栽培していて、狭山茶として出荷していたことが分かっています。
砂川はいわゆる狭山茶の本場ではないが、その生産地の一部ではある。
「砂川の歴史」より


そもそも「狭山」とはどこを指しているのでしょうか?

もともとは狭山丘陵自体を狭山と呼んでいた可能性もあるようです。
現在、「狭山」は完全に地名化していて、「狭山」の付く地名が狭山丘陵周辺に散らばっています。
面白いのは所沢市にある「狭山不動尊」の山号。これが「狭山山(さやまさん)」なのです。*1


小平に店舗を構える鈴木園さんの、「玉川上水」と名付けられたお茶も狭山茶です。
玉川上水と狭山茶は意外とつながりがあるため、納得!





お茶好きの私は、毎年狭山の新茶イベントに行っています!

新茶イベントの定番は、
・茶摘み体験
・お茶販売、お茶加工品の販売
・手揉み茶の実演
となっています。その他、淹れ方講座やお茶席なども、そのイベント次第で。

摘んだお茶の葉は、自宅で製茶(電子レンジやホットプレートを利用)したり、天ぷらにして食べたりできます。これがとてもおいしい!

お茶に関して、特別な興味や知識がなくても十分に楽しめるイベントなので、おすすめです。
「新茶 イベント」等で検索すればきっと情報が見つかることでしょう。



ちなみに!
「茶畑の野鳥」といえば、キジとホオジロです。
わざわざ茶畑にバードウォッチングに出かける人は少ないと思うので、あまり知られていないことなのかも。

畑地の多かった昔は、比較的どこでも見られる野鳥だったキジ。茶畑ばかりのお茶どころでは今もうろうろしていて、どこからともなく「ケーン、ケーン」と聞こえてきます。

そして、お茶の葉のとれるチャノキはツバキの仲間。常緑樹です。
これがホオジロにとっては都合のいい藪となっていて、あちこちから「チチチ...」と聞こえてきます。
八十八夜の頃には繁殖期であり、電線に止まって「一筆啓上仕り候!」とさえずっている姿もよく見られます。


*1 どんなお寺にも「山号」と「寺号」があります。落語の「山号寺号」でおなじみ。 浅草の観音様は金龍山浅草寺。成田山新勝寺。東叡山寛永寺。三縁山増上寺。狭山のうしろにさらに山が付いて、「狭山山(さやまさん)」となってしまうことからも、「狭山」が山の名前ではなく完全に地名化していることが分かります。

江戸東京たてもの園 特別展「小金井の桜 ー春の江戸東京名所めぐりー」

江戸時代から桜の名所として知られた「小金井桜」とは、いうまでもなく玉川上水の桜のことです

小金井桜については以前、玉川上水と小金井の桜の記事で詳しく書きました。

今回、江戸東京たてもの園で開催された、特別展「小金井の桜 ー春の江戸東京名所めぐりー」では、小金井を中心とした江戸東京の桜の名所に関係のある錦絵や資料、道具が数多く展示されていました。

会期は2016年3月8日(火) ~ 5月8日(日)。(期間中、展示替え有り。)

(撮影 2015年3月31日 小金井公園内 江戸東京たてもの園前)
2ヶ月たっぷりの会期。
3月末〜4月初旬ならば、ソメイヨシノを楽しみながら、展示も楽しめます。


今回の展示を見て、いくつか発見がありました。
まずは「武蔵野小金井桜順道絵図」に書かれていた「玉川御上水」の表記。
江戸の御城にも給水していた玉川上水ですから、「御上水」と呼ぶことがあっても何もおかしくありません。
以前「玉川上水は何と呼ばれていたか」という記事を書いたけれど、その頃にはこの表記を見つけることができていませんでした。
「御上水」で調べて行ったらまた新しく分かることがあるかも!

もう一つの発見。遊園地として有名な「浅草花やしき」はもともと本当に植物園の意味での「花屋敷」だったとのこと。桜の名所でもあったようです。
一応、江戸文化歴史検定2級の資格を持っている私ですが、初めて知りました(勉強不足...)。有名な話でしょうか。

錦絵に関しては、復刻版の展示も多めでしたが、くっきりと見やすい色味でした。
浮世絵(というより錦絵)は、江戸時代に刷られた「本物」をありがたがるようなものではないと個人的には思っています。もちろん本物の魅力・価値はありますが。
絵から何か情報を読み取ろうとする時には、発色の良い複製や復刻版のほうが、分かりやすい部分もあるのではないかと。


さて、小金井桜について知りたい場合、こちらの冊子がおすすめです。

「名勝小金井 桜絵巻」
名勝小金井(サクラ)の江戸時代から現代までの歴史を、錦絵・紀行文・古写真・絵葉書等の資料で紹介した冊子。
1部700円です。小金井桜に関する錦絵や昭和30年代の写真が充実しています。

市の出版物のため、一般書店では購入できません
また、今回の展示の図録というわけでもないので、江戸東京たてもの園でも取り扱っていません。
小金井市役所 生涯学習課と小金井市 小金井市文化財センター(浴恩館)で購入できます。


何かがおかしい、現在の小金井市内 玉川上水。
写真右側=水路側にずらーっと並んでいるケヤキは、水路の底に近い斜面から伸びているのです。

江戸時代の浮世絵はもちろん、昭和30年代の写真を見ても、堤はしっかりと下草刈りが行き届いているようで、桜並木以外の樹木はほぼ見当たりません。
「名勝小金井 桜絵巻」 によると、
しかし、昭和四六年頃、小平監視所より下流の玉川上水の通水が停止してからは、次第に水路の荒廃が進み、ケヤキを中心とする高木が旺盛に繁茂し、わずか二〇年ほどで雑然とした雑木林に変わってしまいました。
とのこと。
桜の生育にも影響があるため、伐採も進んでいるケヤキを中心とした高木。

雑木林を優先すべきか、桜を優先すべきか、どちらにとっても都合の良い妥協点があるのか、考えることは良い勉強になりそうです。

大事なのは「ケヤキは伐採すべき!」「ケヤキは伐採すべきではない!」と極端にならないことだと思っています。
雑木林的な環境を最優先するとしても、ある程度間伐すべきケヤキがあると思いますし、桜を最優先するとしても今の緑道を乾燥や排気ガスから守るためには桜以外の樹木をある程度残す必要があるでしょう。

残念な話ではあるけれど、「車道に挟まれ交通量が多い状態は変えられないが昔のような雰囲気の桜並木を復活させたい!」というのはやはり今となっては難しいのだと思います。