玉川上水 通船についての基礎メモ

1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間、玉川上水で通船が行われました。

たった2年間のことですが、商売に大きく絡んでいたこと、そしてすでに明治期に突入していることで、多くの資料が残っています。 資料の少ない江戸時代の玉川上水と比べると、逆に調べる大変さがありますが、まずは勉強のために基本的なことをまとめておきます。



・何のために通船が行われたのか?

多摩ー江戸間の荷物の運搬はかなり不便だったようで、馬に少量積んで少しずつ運ぶしかなかったようです。 江戸中期、玉川上水周辺で新田開発が行われ、生産物がぐっと増えました。 もしも玉川上水を利用して船で荷物を運ぶことができたら、かなり便利になります。 何度も通船願いは出されていたようですが、はじめてその願いが許されたのが明治初期。 砂川村の名主だった砂川源五右衛門もこの通船願いに大きく関わっていたようです。


・通船にあたって必要だったこと

さて実際に船を通すとなると、そう簡単にはいきません。 場所によっては水路の幅を広げる改修が必要であり、橋を高くすることも必須です。 単に船が通過するだけなら少し高くすればすみそうですが、上りの時には船に綱をつけて両岸から引っ張る必要があります。
砂川村で最大90cmほど橋を高くした記録もあるようです。
綱の引っ張り役はいったいどこを歩いたのか、考えながら玉川上水を散歩するのも楽しいものです。


・通船の実態など

船の大きさは長さ6間、幅5.2尺が多かったとのこと。
10.9m×1.6mの船が玉川上水を通行できたというのはなかなか信じられません。


ほとんどの船は荷物を運ぶためのものだったのですが、人を乗せる船もあったそうです。
青梅、東京間ということなので、青梅から羽村までは多摩川、そこからは玉川上水を通行したということでしょうか。

船が下るのは毎月5、9、25、29、25、29日。八王子で市が立った次の日。
江戸時代には現在のように曜日が日常的に使われていなかったので、毎月「4の付く日」、「8の付く日」、のような感じで定期的なイベントを行っていました。
明治初期なので、まだその名残があったのでしょう。
(新暦導入とともに曜日制が本格的に用いられるようになったのは1873年(明治6年)から。)


最盛期には100艘以上の船が行き来したとのこと。

参考文献
肥留間博 (1991)『玉川上水―親と子の歴史散歩』たましん地域文化財団
ほか