小平監視所と清流復活

玉川上水駅から東へ少し歩いたところに小平監視所があります。
現在、玉川上水に多摩川の水が実際に流れているのはここまで
ここまでの水は東村山浄水場へ送られ、水道水になります。
ちなみに、東村山浄水場へは、3つのラインで水が送られています。
・小作取水堰(羽村よりも上流)→山口貯水池(狭山湖)→東村山浄水場
・羽村取水堰→村山貯水池(多摩湖)→東村山浄水場
・羽村取水堰→玉川上水→東村山浄水場

※現在の東京の水源の大部分は多摩川水系ではなく利根川・荒川水系となっている。


さて、小平監視所から下流には再生水(下水の処理水)が流れています。

(撮影 2013年11月)
こちらは多摩川上流水再生センターで処理された水。
昭島市にその施設はあり、青梅市・昭島市・福生市・羽村市・瑞穂町の大部分と立川市・武蔵村山市・奥多摩町の一部(東京都下水道局のwebサイトで確認できる)の下水を処理しています。
玉川上水以外にも、野火止用水、千川上水にもこの処理水が送水されている他、多摩川にも放流されています

80年代より、いくつかの水路で清流復活事業が行われました。

時代の変化に伴い役割を失った水路に、再び水流を復活させようとした事業です。

清流復活事業年表
1984年(昭和59年) 野火止用水
1986年(昭和61年) 玉川上水
1989年(平成元年) 千川上水
1995年(平成7年) 渋谷川、目黒川、呑川

たしかに水流は復活したものの、その水は下水の処理水。
特に復活してしばらくの間はネガティブな反応もなくはなかったようです。



(撮影 2015年9月)
玉川上水 清流復活口付近では、流れる水のすぐ側まで下りられるようになっています。
このくらいの視点で水路を見られる貴重な場所です。


(撮影 2015年11月)
こんな視点で撮影することも可能です!

小平監視所年表
1963年(昭和38年) 小平水衛所ができる。
1965年(昭和40年) 淀橋浄水場が廃止、その機能は東村山浄水場へ移転。
1980年(昭和55年) 玉川上水のいくつかの水衛所が廃止・統合。
小平のものも小平監視所に改められる。
1986年(昭和61年) 清流復活事業の実施。
小平監視所より下流に再生水(下水の処理水)を流しはじめる。

行ってきました上水記展

御茶ノ水駅から徒歩5分ほど。
東京都水道歴史館です。



玉川上水も当然、「水道」に分類されます。
というわけで、この水道歴史館でも玉川上水のことが大きく扱われています。
2Fはまるごと「江戸上水」の展示になっていて、江戸長屋の再現コーナーまであります。
水に興味のある方だけではなく、江戸時代好きにもおすすめできる、隠れた江戸スポットです。

今回のお目当ては、秋の特別企画展『上水記展 ~江戸の面影を求めて 神田上水をたどる~』です。(会期 2015年10月31日(土)~11月8日(日))
一年に一度の上水記の展示!
東京都文化財ウィークの期間中に、毎年上水記に関連する展示を行っています。

上水記は、玉川上水について詳しくするための資料としては貴重なものですが、完成したのは1791年(寛政3年)。
当時、幕府普請奉行上水方だった石野遠江守が、残存していた玉川上水に関する資料を編纂したものとのことですが、玉川上水開削から100年以上も経過してしまっています。
どこまで正確なものなのか、判断できない部分もあります。


さて、今回は、訪れた時間がちょうど学芸員解説を行っているタイミングでした。
今回の展示テーマである、神田上水に関する興味深いお話をたくさん伺うことができました。
神田上水に関してはまだまだ研究不足なのですが、今回の展示をみて興味がわきました。

水道歴史館の屋外、本郷給水所公苑には、発掘された神田上水遺跡の一部が移築・復原されています。
神田上水の石樋


実はちょうど2年前にも、平成25年度 秋の特別企画展『上水記展~玉川上水 江戸市中の上水網~』に行っていました。
この時はばっちり玉川上水がメインテーマ。
しかし、2年前の私は玉川上水に関する知識も、江戸文化・歴史に関する知識もまだまださっぱりで、情報を読み取りきれない部分も多かったのです。
2年ぶりに訪れてみると、理解できることがかなり増えている!勉強した成果を実感することができました。


展示内の個人的なイチオシは、玉川兄弟のアニメーションです。
1Fの情報コーナーで視聴することができます。(19分)
杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』が原作と、テロップ表示がありました。

若干、時代考証的にあやしい部分もあった気がしますが、子供が玉川兄弟の概要を学ぶにはぴったりな教材だと思います。(もちろん大人も楽しめます。)
学校教育用に、ビデオ・DVDの無料貸出しも行っているとのこと。

こちらのページ(東京都水道局)で視聴することもできます。(wmvファイル)

いつか、もう一度玉川兄弟についての資料をしっかり調べなおした上で、玉川兄弟のスペシャルドラマを放送、なんていうことがあったらいいな!と思います。

水道歴史館では、来館者に「東京水」のペットボトルのプレゼントを行っています。
今回は、館内アンケートに答えて、ウェットティッシュ、水滴くんのピンバッチもいただきました。




さてみなさんは、「水道から流れてくる水はいったいどこから来ているのか」と子供にたずねられたら、答えられますか?

砂川源五右衛門さんを調べたい

玉川上水沿い、現在の立川市内の砂川村。
明治時代にその砂川村の名主様だった「砂川源五右衛門」という人物がいます。

立川の昔話にも登場し、なんと身の丈六尺(180cm以上)、体重二十七貫(約100kg)という巨漢
小さい頃から武術*1を好み、神道無念流*2の免許皆伝。
若いころに武者修行にも出ていたようです。

そんな源五右衛門ですが、明治に入ると玉川上水の通船を計画し、願い出ます。
また、後に北多摩郡の郡長にもなっています

昔話と近代を横断する不思議な人物像
まとまった情報はなかなか見つからず、地道な調査研究が必要になりそうです。

源五右衛門分水は、玉川上水の最も新しい分水。1910年(明治43年)開設。

その側に巴河岸跡もあります。



1870(明治3年)〜1872(明治5年)。
たった2年間の通船でしたが、大きな影響力があったようです。
船は、多摩川と上水路沿岸の村々の産物(野菜、炭、薪、酒、たばこ、ぶどう、茶、木綿、紙等)を運び、帰りに肥料や生活用品を輸送した。上りは、人力で曳舟をした。
上りは人力で曳舟、というのは江戸時代にはよく聞く話です。
最盛期には100艘以上の船が行き来したとのこと。

便利な輸送手段でしたが、水の汚染等を理由に廃止。
1889年には新宿ー立川間に甲武鉄道が開通し、新たな輸送手段に
新しい時代がやってきます。


*1 江戸時代、特に幕末の多摩は武術がとても盛んだった!出稽古によって、江戸・多摩各地のネットワークも生まれていた。そんな中から後に新選組となる近藤勇、土方歳三も誕生。彼らも多摩農家の生まれである。

*2 神道無念流を学んだ人物として有名なのが、桂小五郎(木戸孝允)。新選組の中では永倉新八がそう。近藤勇は天然理心流。坂本龍馬は北辰一刀流。
砂川村にも井滝伊勢五郎という人物による天然理心流の道場があり、少年時代の近藤勇がよく来ていたらしい。

参考文献
立川市教育委員会 (1977)『立川のむかし話』.
小泉智和 (2002)『玉川上水ぶらり散歩』日本水道新聞社.


追記:2016年2月
別記事「砂川源五右衛門」でそこそこ調べました。

玉川上水と小金井の桜

現在では、玉川上水の出発点羽村堰で見事な桜が見られるようになっていますが、江戸時代の玉川上水における桜名所といえば、なんといっても小金井です!


(撮影 2015年3月 小金井市内の玉川上水の桜)

さて、小金井桜のルーツを遡って行くと、8代将軍徳川吉宗公(暴れん坊将軍としておなじみ)の時代にたどり着きます。
江戸中期ですね。

小金井橋付近の解説板から引用すると、
幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜麩側など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。
とのこと。

桜の花に、水の解毒作用があると考えられていたという説もあります。当時、土手の雑草やゴミが水路に落ちないように細心の注意が払われていたようなのですが、桜の花びらに関しては、水路に落ちていくのをむしろ歓迎していたのかもしれません。

(撮影 2015年4月 桜樹接種碑 「さくら折るべからず」)

江戸後期に桜の名所して有名だったのは、上野、品川、墨堤、飛鳥山、そして小金井です。
そのほとんどは吉宗公の命により、植樹されていったもの。
徹底的な倹約方向に進みがちだった享保の改革
溜まりがちなストレスを発散させる場所として「花見」という娯楽を用意したのだと考えられます。

上野や墨堤はともかく、品川、飛鳥山、小金井は江戸の中心からちょっとした距離があるというのもポイント。
しっかり歩いて体力を使うことも、やはりストレスの解消につながります。
苦労して辿り着いた先の桜はきっと格別だった。よーく考えられている!


人気のあった江戸後期の小金井桜は、多くの浮世絵や地誌に登場します。
天保年間には水野忠邦*1、そして13代将軍徳川家定公*2もこの桜を見に訪れています。

現在よりも間違いなく水量の多かった当時の玉川上水は、完全に「川」に見えます。
そして、現在のように放置された多くの樹木が鬱蒼と茂ることはなく、明るい並木道という雰囲気。

この頃描かれたいくつもの小金井の絵からイメージをつなぎあわせて、当時の様子を頭に思い浮かべてみると、その美しさに涙が出そうになります。


さて、時代が進み、1924年(大正13年)には小金井の桜が国の名勝に指定されます
明治期に甲武鉄道が開通したことで、東京中心部からのアクセスもぐっと便利になっていました。

しかし、戦後には樹木の老化や周囲の都市化によって、徐々に衰えていってしまうのです。
小金井辺りの玉川上水緑道は、両脇が車通り多い車道になっているため排気ガスの影響も受けやすいのでしょう。
立川から小平にかけての静かな緑道と比べると、のんびり静かに散歩することは難しくなっています。

1954年(昭和29年)に小金井公園が開演すると、徐々に桜の名所としての中心地は公園内に移っていきます

(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)

現在では小金井公園が「小金井桜」の伝統を受け継ぐ桜の名所として親しまれています。

そして、アクセスが若干不便*3なことが上手く機能しているのか、花見シーズン真っ盛りでも比較的落ち着いて桜を楽しむことができます。

(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)
これだけの桜の下に人の影がほとんど見えない。朝早くの小金井公園。


(撮影 2014年11月 小金井公園内の桜)
品種も豊富。冬桜系も多く植えられていて、秋冬にも花の咲く桜を見られます。



小金井桜が小金井公園内に受け継がれていったように、玉川上水の歴史や自然も、その時代に合った良い残し方・受け継ぎ方を考えていけたら、と思います。



*1 誰もが学校の授業で習う「天保の改革」を行ったその人である。改革が厳しすぎたため後に失脚。
*2 厳密には小金井を訪れた頃にはまだ将軍職ではない。世継の頃。
*3 北には西武線花小金井駅、南にはJR武蔵小金井駅 or 東小金井駅、どちらからも気軽に徒歩で行ける距離ではなく、多くの客はバスを利用する。徒歩の場合、武蔵小金井駅よりは東小金井駅の方が若干アクセスが良いとのこと。