玉川上水は何と呼ばれていたか

立川のむかし話を調べていると、「大堀」という言葉が出てきました。

玉川上水は、砂川の歴史や生活に深いかかわりをもっているので、村の人たちは、「おお堀」(大堀)と、親しく呼んできました。

用水の主流や分水を、役割や位置に応じて「大堀」「外堀」「内堀」「新堀」などと呼ぶことがある*1と聞いたことがあります。
かつて玉川上水もそうだったようですね。
現在(2015年)、玉川上水を「大堀」という呼ぶ方には出会ったことがありませんが...

むかし話によると、砂川村の子どもたちは、夏がくると玉川上水で泳ぎ遊んでいたらしい。
もちろん、飲水にも使う上水の水は汚してはいけないし、泳ぐことも禁止されていました。
見回りに来る川番の目を盗んで、泳いでいたとのこと。


(撮影 2015年9月)

下流の人たちにとってはいい迷惑である。
江戸の町人は「水道の水産湯をつかった」ことを自慢していましたが、その水道の上流で子どもが好き勝手に泳いでいた!うーん。

玉川上水は「堀」と呼ぶのがふさわしい程度には、深く急に掘り下げられています。
ゆったりと深くなる川と違い、落ちるとなかなか危険*2
子どもたちは、まず柴崎分水や砂川用水などの水路で泳ぎを覚えた後に、大堀で泳ぐことに挑戦したそうです。

資料によっては、玉川上水を汚すとかなり厳しく罰せられていた!という印象を受けることもありますが、立川の伝承によると"おとなたちも、大目にみてくれていました"とのこと。

むかし話を資料としてどこまで信用するかは難しい部分がありますが、こうやって調べていくと印象がかなり変わります
もっと深く調べて行きたい!


(撮影 2015年7月 キツネノカミソリ 夏に見られる野草)

*1  追記。江戸時代の言葉に「白堀」というものもあるそう。開渠になっているお堀をそう呼んだとのこと。

*2  水量の少ない現在、溺れる心配はないが落下すると危険な状態になっている。特に小平周辺。現在、土手の大部分に柵が設置され中に入れないようになっている。景観を損ねているようにも見えるが、事故の可能性を考えるとどうしても必要なものだと思う。

参考文献
立川市教育委員会 (1977)『立川のむかし話』.

立川市唯一の山 金比羅山を登る

玉川上水に架かる「金比羅橋」の近くには、立川市唯一の山である「金比羅山(こんぴらやま)」があります。

といっても、玉川上水緑道からそのまま山に登ることはできません。
歩いて行くと、こんな看板が。

参道は山の南側です!

ぐるっと山を回りこんで入り口を目指します。


木製の鳥居が良い雰囲気。



入り口付近の説明によると高さは15mほど。
決して高い山ではありませんが、たしかに階段で登っていきます。これは山だ!


階段を登る途中にも、金比羅山についての解説があります。(手書きで読みやすい)
しかしこの金比羅山と神社、成り立ちについてはっきりと分からないことがいくつかあります。

◆山はいつできたのか?
・掘った時の土砂を利用した説
この場合、玉川上水開削時(1653年)からそれほど時間は経たずにできていたはず。

・砂川家(砂川村名主)が屋敷裏手の水田を作った時に、掘りあげた土でできた説
この場合、江戸中期以降の可能性が。

・「この金毘羅山は江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。」と解説がある
富士塚作り、富士信仰が流行したのは江戸中期。

これらの情報すべてに矛盾が出ないように考えてみるならば、
開削直後、掘った土砂である程度の山ができていた

富士信仰が流行した頃に、水田を掘りあげた土を利用して富士塚として仕上げた
こんなところでしょうか。全く推測の域を出ませんが。

※『立川市立第九小学校 創立130周年記念副読本 はばたけ 砂川っ子』に「1860年ごろにつくられたといわれています。」との記述あり。ただしこれは山ができたタイミングではなく、勧請したタイミングだと思われる。後述。

ちなみに、玉川上水駅から多摩都市モノレールに乗ると、天気の良い日はばっちり富士山が見えます。

ということから考えて、頂上から実際に富士山が見えていた可能性はかなり高いのではないかと。
(現在は周囲に木が茂り過ぎていて難しい。)

◆勧請について
文政年間(1854〜1860)に砂川村の名主 砂川家が願主となり、頂上に富士浅間、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。特に金比羅様は玉川上水で舟運が行われ(近くに巴河岸跡)た頃、舟神様として祀られ それからこの山は金比羅山と呼ばれるようになりました。
現在はこの解説と異なり、頂上に浅間神社と金比羅神社が、中腹に秋葉神社がある
また、手元にある立川のむかし話にも、
金比羅山の中腹には、小さなお堂があって、金比羅さまが、また頂上には、小さなほこらがあって、浅間さまがまつられています
とあります。
この文章は昔話を記述した部分ではなく、現在の様子を描写した文章として書かれていました。1977年(昭和52年)出版の本ではありますが、その時点で金比羅さまのお堂は中腹にあったのでしょうか…?

ちなみに浅間さまは富士信仰の神秋葉さまは火防の神金比羅さまは海上交通の神です。
江戸時代に富士信仰、金比羅信仰はかなり流行し、秋葉さまも火伏せの神としてメジャーな存在。
しっかりと流行をおさえていた、ということでしょうかね。

◆金比羅山と呼ばれるようになった時期について
舟運が行われた頃から金比羅山と呼ばれるようになったというのが正しいとすると、明治初期ということになります。*1
それより前には呼ばれていなかったのでしょうか?

もう少し、この金比羅山に関する資料を探し、調査していきたいところです。


頂上にある金比羅神社。

さて、昔話によると、諸国を旅していた金比羅さまが休憩に立ち寄った山がこの金比羅山だそうです。
山から見下ろすと目の下に玉川上水のゆたかな水の流れが見えたので気に入り、この山に住むことに決めたのだとか。
現在、頂上の周りにはたくさんの樹木が鬱蒼と生い茂っていて、残念ながら玉川上水の流れを見ることができません。
この昔話が生まれた頃には、頂上から流れを見ることができたのでしょうか。


*1 玉川上水で舟運が行われていたのは1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間のみ

新宿の玉川上水を歩く

新宿 四谷は玉川上水の終点。

新宿周辺の水路は暗渠になってしまっていますが、多くの石碑やモニュメントによってその跡をたどることができます。
今回は西新宿、東京都庁の南からスタート。甲州街道からもう少しだけ南へ進むと公園が。
かつての水路は大部分が遊歩道や公園になっています


ギンモクセイ(銀木犀)が咲いていました!良い香り。


しばらく進むと天神橋跡にたどり着きます。
やはりここに水が流れていたことを実感する。


次に見えてくるのが勿来橋跡。
勿来橋、読めますか?なこそばし。
隣には文化学園。


勿来橋跡のそばにはモニュメントと玉川上水の記。作られたのは2003年(平成15年)。
明治時代に、このモニュメントのようなアーチ状煉瓦造りの暗渠が新宿駅地下に設けられたそうです。ほぼ原寸大だとか。



さらに進めば葵通り。この辺りは自動車も通れます。
短い間隔で千駄ヶ谷橋跡、葵橋跡と続きます。

残念ながらこの葵通りを直進すると、建物にぶつかってしまいます。
新宿駅を抜け、新宿御苑の方向へ進んでいきます。

新宿御苑の新宿門、その脇に内藤新宿分水散歩道があります。
大木戸門までの約540mが水も流れる散歩道となっています。
全区間の整備が終わったのは最近(2012年)。

24時間通行できるわけではなく、休園日もありますが、新宿御苑の外にあるため入場料もかかりません。

のんびりと散歩が楽しめます。

散策路の脇にたくさんの植物が植栽されています。
シュンラン、ニリンソウ、ホタルブクロ、ノカンゾウ、センリョウ、ホトトギス、ノコンギク、キキョウなどなど、まさに「武蔵野の山野草」というイメージのものばかり。


キチジョウソウ(吉祥草)の花が咲いていました!

大木戸門に到着したら、もう少し先まで新宿御苑を進みます。
四谷区民ホールの先にあるのは… 

水道碑記(すいどういしぶみのき)です!
1895年(明治28年)に完成したもので、玉川上水開削の由来を記した記念碑です。
漢文で書かれているため、今の私では簡単に読むことはできませんが、いつか読み解いてみたい。
上部の篆字は徳川家達*1によるもの!


となりに四谷大木戸跡もあります。
ああ、江戸名所図会*2なんかで見てきた四谷大木戸がここにあったんだなあ...としみじみしながら近くの説明を読むと、
実際の大木戸の位置は、ここより約八〇メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
とのこと。うーん、ほんのちょこっと騙された。


大木戸門より新宿御苑に入り、まっすぐ進むと見えてくるのは玉藻池
このあたりはもともと内藤家*3の屋敷の敷地内。庭園は玉川園と名付けられていました。

四谷大木戸の水番屋で、江戸市中に送る水量が調整され、余った水は南へ吐き出されます。
この池も、その水を利用していました。

吐き出された水は、さらに南で渋谷川(穏田川)に合流していきます。
こちらもいつか追っていきたいですね。


(記事内写真全て 撮影 2015年10月)

*1 徳川家達(いえさと)は徳川宗家16代当主。明治維新後、最後の将軍徳川慶喜に代わり徳川宗家を継ぎました。
*2 図会(ずえ)と読む。江戸後期に書かれた地誌。江戸名所といいつつも、広く武蔵野の名所を扱っている。長谷川雪旦による写実的で精細な挿絵が、当時の町の様子を知る上でとても貴重な資料となっている。
*3 高遠藩主内藤家。新宿御苑周辺でかなり広い敷地を治めていた。その一部を返還してできた宿場町が内藤新宿

「まいまいず井戸」と武蔵野の水

江戸も多摩も、水を得ることが難しい土地だった*1
…というのは、現在の東京に暮らしていると実感しにくいことなのかもしれません。

江戸の場合、海の近くを埋め立てた土地が多いため、井戸*2を掘っても水が塩気混じりで飲み水にはできない。
多摩の場合、地下水脈がかなり深いところにある上に、崩れやすい礫(れき)層も深いため地面が掘りにくい。

水の問題が簡単に解決できていれば、玉川上水を作る必要はなかったことでしょう。
もちろん、簡単には解決できないので、玉川上水が必要だったわけです!
江戸時代に玉川上水が完成したことで、飲み水の問題が解決された江戸は百万都市に成長し、分水網によって多摩の新田開発も進みました。


玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩


さて、それ以前に多摩の水問題をなんとか解決しようと作られていたのがまいまいず井戸です。

*1 もちろん、多摩全域で全く水が得られないわけではありません。湧き水や川のそばでは大昔の遺跡がよく見つかっています。

*2 時代劇での江戸の町には井戸が登場します。井戸端会議も行われます。そのほとんどは地下水による井戸ではなく、玉川上水や神田上水の水を溜めている上水井戸です。


(撮影 2013年11月 羽村市のまいまいず井戸)

羽村駅から徒歩1分!東京都指定史跡「まいまいず井戸」。

東京都教育委員会の解説を読んでみると、
地元伝説では大同年間(八〇六〜八一〇)に創始されたものとしているが典拠はない。形態および板碑などの出土からみて、鎌倉時代の創設と推定される。
とのこと。
元文六年(一七四一)に、当時の五ノ神村の村中の協力で井戸普請が行われた記録があり、その後も数回修復されてきたが、
ともあるので、現在の姿は、この江戸時代における井戸普請時に近いものでしょうか。

螺旋状通路の中心に井戸がある構造。ぐるぐると回って降りなければ井戸に辿り着けないこの形は面倒にも思えますが、よく考えられていると思います。

まずは広く掘る、その中心に井戸を掘ることで深さを稼いでいるわけですね。
豪雨時には、いろんなものが中心に集まってしまいそうではありますが...



(撮影 2015年4月 羽村の桜)

まいまいず井戸のある羽村は玉川上水の出発点でもあり、春には見事な桜も見られます。


(撮影 2015年4月 羽村市郷土博物館)

羽村市郷土博物館では玉川上水の情報がたっぷり得られます!
なんと入館料無料


(撮影 2015年3月 府中市郷土の森博物館内 まいまいず井戸)

まいまいず井戸を見られる場所は、羽村以外にも数箇所あります。
その一つが府中郷土の森博物館にあるもの。
こちらは、羽村のまいまいず井戸を参考に復元したとのことなので、親戚のようなものですね。


(撮影 2015年3月 府中市郷土の森博物館内 水車小屋)

府中郷土の森博物館では水車小屋も見られます。
かつては武蔵野のあちこちで、こういった水車が使われていたとのこと。
玉川上水の分水に設置されたものも多数。
そのほとんどは役目を終え現存していませんが、いくつかの場所で見ることができます。

いつか「武蔵野の水車」も深く掘り下げて調査してみたいですね!


参考文献
福田恵一,飯島満 (2011)『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』農文協.