東村山 千体地蔵を見にいってまいりました

こちらは都内唯一の国宝建築!…だった*1正福寺地蔵堂です。


(撮影 2015年6月)
国宝建築でありながら、普段はほとんど人の気配がありません
のんびり気軽に足を運んで楽しめる国宝です。


国宝指定されているのは、正福寺内の地蔵堂の部分。
本堂は別にあります。

多くの小地蔵が奉納されている地蔵堂内。
中を見学できるのは、一年のうち3日間だけ。
さらに、写真撮影可能なのは公開中の一時間程度だけなのです。


(撮影 2015年11月)

正確な年代は分からないものの、この禅宗様の建物はかなり古い時代の建立。
それゆえの国宝指定ですが、地蔵の奉納が盛んになるのは江戸中期以降
つまり、玉川上水開削後、多摩の新田開発が進み、賑わってきた頃です。

その奉納者は、国分寺、小金井にまで及んでいたとのこと。
多摩の人々の暮らしが少し伝わってきたような気もします。



*1 2009年に迎賓館赤坂離宮が国宝に指定された。正福寺内には、まだ「都内唯一の国宝建築」のような表記があちこちに残っている。

残念ながら自殺の名所だった玉川上水


1948年(昭和23年)。
太宰治山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺をしました。


さて、太宰ファンだけれど玉川上水のことはよく知らないという方が、実際に今のお堀を見て必ず抱く疑問が「この流れでどうやって入水自殺したのか?」というものです。

答えは単純、現在よりも水量は多かったからですね。
さらに今のような柵もなかったため、昔は水路に落下する事故も多かったようです。

浮いて流れてくると、急いで連絡して水を二日くらい止めるんだよ、羽村の方でね。そうすると水が減っちゃうんだよ。そうすんと、つっかえてんの、自殺した女の人がさ、それを揚げるんだ。つっかえる所はいつも決まってるんだ。こう、えぐれてるところで、とぐろまくとかいうことだよ。
『小平ちょっと昔』より


 
(撮影 2015年10月 三鷹市)

その危険さから人喰い川とも呼ばれていた玉川上水。
関わり合いになるのが面倒だと、行き倒れ人を上水に投げ込み、下へ下へと押し流したこともあるらしいです。

比較的新しい記録では、1967年(昭和42年)に若い女性が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて身投げしたそうです。
この時には、小平監視所(当時は水衛所)の職員がすぐに見つけ、女性は命を取りとめたとのこと。


しかし、飲み水としても使われていた玉川上水上流で、こんなことが起きていたと考えると衛生面がおそろしい…


参考文献
小平民話の会編(1988)『小平ちょっと昔』小平郷土研究会.
アサヒタウンズ編(1991)『増補 玉川上水―水と緑と人間の賛歌』けやき出版.

キツネとムジナにやたらと化かされた多摩の農民

玉川上水周辺の村に伝わる昔話を調べていると、とにかくやたらとキツネタヌキムジナに化かされた話が出てきます。


(撮影 2014年8月 キツネノカミソリ)

その理由、そしてそこから読み取れることがいくつかあります。

・昔の多摩にとって、キツネ、タヌキ、ムジナは身近な動物だった。(多く生息していた)
・方角が分からなくなるほど迷いやすい(化かされたと感じるほど)ような道や林がたくさんあった。

何にしても、これらの動物がとても身近な存在だったようです。

ところで「ムジナ」ってどんな生き物でしょう。
ムジナが何を指すのかは、様々な解釈があったようです。
同じ地区で民話を採集しても、その定義がバラバラ。

・ムジナ=アナグマと考えているパターン
・アナグマとタヌキの区別がついていなくて、両方をムジナと呼んでいるパターン
・アナグマとタヌキの区別はついているが、総称として両方をムジナと呼んでいるパターン

※いつ頃から日本にいたのかよく分からないハクビシンがこの時代にもいたとすると、ハクビシンもムジナに含まれる可能性がある

ある地区・地方ではどれかのパターンに必ず当てはまる、というわけでもないので、昔話に登場する「ムジナ」が何であるかを特定することは難しいようです。


さて、玉川上水 金比羅橋付近のこんぴら橋会館2Fに、とても状態のいいタヌキのはく製があります。
1996年(平成8年)に玉川上水付近で、不慮の事故により命を落としたタヌキをはく製にしたものなんだそうです。

 
いい表情。メスだそうです。


現在でも玉川上水周辺にはタヌキの他に、キツネやテンが生息している可能性があるそうです。
ハクビシンはよく見かけます。

ちなみに、タヌキのイラストはしっぽが縞模様になっていることが多いのでよく誤解されているのですが、しっぽが縞模様なのはアライグマです

清流復活時、川底の野草は移植された

玉川上水緑道、土手ではたくさんの山野草を見ることができます。


(撮影 2015年4月 ホウチャクソウ)


(撮影 2015年4月 キンラン)


(撮影 2015年5月 ニリンソウ)


現在では、玉川上水近隣のボランティア団体、NPO等が手入れ・移植していることもありますが、古くから多くの山野草が見られたそうです。
特に、落葉広葉樹の多いエリアの林床では豊富な野の花が見られたのではないかと思います。

さて、1971年から1986年までの間、小平監視所より下流の水路には水が流れていませんでした
玉川上水 空堀に関するメモ

水が枯れ、放置された水路の底には、しばらくするといろいろな植物が生えてきます。
これは、現在水が枯れている水路ではよく見られる光景です。

玉川上水でもそうだったらしいのです。
落葉樹の落ち葉が腐葉土となり、野草にとっても良い環境になっていたのかもしれません。

水を再び流し始めたら、それらの野草はすべてだめになってしまいます。
そのため清流復活が決まった時、「多摩の野草」という玉川上水の野草を記録・観察していたグループが1986年3月から6月にかけ、川底の野草を移植したということです。
この移植活動がどこまで上手くいったのかは分かりませんが、この「多摩の野草」の活動は今まで聞いたことのない話だったので、ここに記録しておきます。


(撮影 2015年3月 ヒトリシズカ)

現在、水量が少なくなってしまった玉川上水をなんとか元に戻したい!という声はあちこちから聞こえます。
様々な手段により検討されているようですが、実際にそれが実現できた時、川底近くに根を張ってしまった樹木、川底近くに根が露出してしまった樹木をどうするのか、たくさんの問題もあるのでしょうね。

善意に思える活動も、様々な視点で考えられるように、よく勉強していきたいと思います。


参考文献
アサヒタウンズ編(1991)『玉川上水―水と緑と人間の賛歌』けやき出版.