巣材を集めるハシボソガラス

野鳥たちは今、巣作りの時期です!

玉川上水で、器用にシュロ皮(と思われるもの)の繊維をほぐしているハシボソガラスに遭遇しました。





玉川上水では、かなり多くの場所でカラスの巣を見つけることができます。
高木のてっぺん近くに、ほぼ枝だけで作られた大きめの巣は、ほとんどがカラスの巣でしょう。
カラスといえば、ハンガーを巣の材料に使うことが有名ですが、玉川上水では見かけたことがありません。宅地ばかりの都心で、材料が不足している場合の手段なんでしょうね。


最近、木の枝を折る姿や、地上で細かい枝をくわえる姿をよく見かけていたのですが、今回は巣の底に敷くためのやわらかい素材集め。
両足で押さえて、くちばしで少しずつひっぱり出すという作業を数分間繰り返し、少しずつ繊維がほぐれていきました。

ハシボソガラス以外にも、ハシブトガラス、シジュウカラ、エナガの巣材集めを最近目撃しています。
(ハシボソガラスよりハシブトガラスのほうが若干巣作り開始が遅いという不思議。)
いよいよ繁殖期。

観察や撮影によって、余計なストレスを与えないよう、最大限気をつけていきます。

日本野鳥の会 会誌『野鳥』昭和46年2月号 巻頭は「玉川上水の鳥」

日本野鳥の会の会誌『野鳥』昭和46年2月号を入手することができました。


目的は、玉川上水について書かれている記事。
しかし、分かっていたのは「玉川上水の鳥」というタイトルの記事があるという情報だけ。
「その当時(1971年)玉川上水に生息していた具体的な野鳥の情報があるかも!」と期待したのですが、残念ながらそれは無し。
そのかわり、その時期の玉川上水に関するとても質の高い文章が掲載されています。エッセイ寄り。

国木田独歩の『武蔵野』で描かれた玉川上水周辺の情景とその魅力ついての話からはじまり、その頃の玉川上水暗渠化、通水停止、道路化に対する批判となっています。


記事の終盤にこんな文が。
それを繁栄に導いた玉川上水でありながら今日まで国はおろか、都の文化財にも史蹟にも指定されてゐない。どうせ文化心のない役人共のすることだから、史蹟などに指定しては、あとの破壊が面倒になるといふ下心があったのかも知れない。
2003年(平成15年)8月に玉川上水は国の史跡に指定されました。
その頃の作者に教えてあげたいですね。


ところで、目次には「玉川上水の鳥」と書かれているのですが、本文ではタイトルが「玉川上水の小鳥」となっています。何か手違いがあったのか...


まだ中西悟堂先生がご健在の頃の日本野鳥の会。
その会誌はとても文学性が高く、専門的な内容となっています。
現在の会誌『野鳥』が、写真中心の「野鳥ファンクラブ」的な内容になってしまっているのは、仕方のない時代の流れでしょうか。

玉川上水 通船についての基礎メモ

1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間、玉川上水で通船が行われました。

たった2年間のことですが、商売に大きく絡んでいたこと、そしてすでに明治期に突入していることで、多くの資料が残っています。 資料の少ない江戸時代の玉川上水と比べると、逆に調べる大変さがありますが、まずは勉強のために基本的なことをまとめておきます。



・何のために通船が行われたのか?

多摩ー江戸間の荷物の運搬はかなり不便だったようで、馬に少量積んで少しずつ運ぶしかなかったようです。 江戸中期、玉川上水周辺で新田開発が行われ、生産物がぐっと増えました。 もしも玉川上水を利用して船で荷物を運ぶことができたら、かなり便利になります。 何度も通船願いは出されていたようですが、はじめてその願いが許されたのが明治初期。 砂川村の名主だった砂川源五右衛門もこの通船願いに大きく関わっていたようです。


・通船にあたって必要だったこと

さて実際に船を通すとなると、そう簡単にはいきません。 場所によっては水路の幅を広げる改修が必要であり、橋を高くすることも必須です。 単に船が通過するだけなら少し高くすればすみそうですが、上りの時には船に綱をつけて両岸から引っ張る必要があります。
砂川村で最大90cmほど橋を高くした記録もあるようです。
綱の引っ張り役はいったいどこを歩いたのか、考えながら玉川上水を散歩するのも楽しいものです。


・通船の実態など

船の大きさは長さ6間、幅5.2尺が多かったとのこと。
10.9m×1.6mの船が玉川上水を通行できたというのはなかなか信じられません。


ほとんどの船は荷物を運ぶためのものだったのですが、人を乗せる船もあったそうです。
青梅、東京間ということなので、青梅から羽村までは多摩川、そこからは玉川上水を通行したということでしょうか。

船が下るのは毎月5、9、25、29、25、29日。八王子で市が立った次の日。
江戸時代には現在のように曜日が日常的に使われていなかったので、毎月「4の付く日」、「8の付く日」、のような感じで定期的なイベントを行っていました。
明治初期なので、まだその名残があったのでしょう。
(新暦導入とともに曜日制が本格的に用いられるようになったのは1873年(明治6年)から。)


最盛期には100艘以上の船が行き来したとのこと。

参考文献
肥留間博 (1991)『玉川上水―親と子の歴史散歩』たましん地域文化財団
ほか

コブシ

コブシ(辛夷)は、春に花をつける落葉広葉樹です。モクレン科。

武蔵野の雑木林には多く生えていたと聞きます。


玉川上水でも、立川から小平にかけての雑木林エリアで、林内にいくつかのコブシを見つけることができます。


9月頃に見られる果実は集合果。いくつか集まっていることで、人間の拳のような形になります
諸説ありますが、これがコブシの名前の由来なんだとか。


 
しばらくすると、鮮やかな赤い実に。
野鳥も食べることのある実ですが、今のところ玉川上水のコブシの実を食べる野鳥の姿を自分の目で観察したことはありません。今後要チェック。


樹皮は比較的なめらか。年をとると、少しザラザラしていきます。


なかなかいい色に紅葉します。あまり赤くはならないタイプ。


葉の形は鋸歯のない全縁先端が細く尖っていることも特徴です。
落ちた葉も、コナラ・クヌギ林の中では簡単に見分けられます。


白く清楚な花からは、香水として使いたいくらいの良い香りがします!
近い種であるモクレンと同様。
ただ、残念ながら高いところにしか花をつけない場合があります。もしも手の届く距離に花が咲いていたら、ぜひぜひ香りをお楽しみください。
花の開花とほぼ同時に、つけねから葉が生えるのもポイント!

千昌夫さんの『北国の春』の歌の中にも「こぶし咲くあの丘~♪」なんていうフレーズがあります。
コブシは農作業の進行の基準としていた樹木とも言われています。
単にコブシの花を思い出しているだけでなく、その周辺の農村風景まで回想しているのかもしれませんね。
もっとも「北国」ですし、直前の歌詞にも「白樺」が登場しています。武蔵野の雑木林の中で見られるコブシとは違う風景でしょう。



コブシは立川市の「市の花」でもあります。
市の公認キャラクターである「くるりん」ちゃんのしっぽはコブシの花になっています。

ちなみに立川市、小平市の「市の木」はどちらもケヤキとなっています。
こちらも、玉川上水で多く見かける樹木です。
その他、街道沿いの屋敷林、街路樹としても多くの場所に植えられています。