西武鉄道 玉川上水駅 旧駅舎

玉川上水に架かる清願院橋上に造られた西武鉄道 玉川上水駅。
1998年(平成10年)に多摩都市モノレールが開業
そこから1999年(平成11年)にかけて、玉川上水駅は大きく様変わりしました。

現在は西武拝島線と多摩モノレールの乗り継ぎが可能な大型の駅になっています。

南口を降りたところに残されているのが旧駅舎

看板や掲示物は剥がされ、すっかりさびれています。



駅ホームから見た裏側の様子。

この建造物が以前の駅舎であったことはあまり知られていない...というのは若い世代の話であって、モノレール開業前から駅を利用していた方々にとっては懐かしい建物なのかもしれません。

南北に伸びるモノレールと平行に伸びている道路が芋窪街道
現在はこの駅の手前で地下に潜り(玉川上水の下を通過する!)、北口の先に出られるようになっています。渋滞緩和のためでしょうね。
以前はこの駅舎左側にそのまま道路が伸び、線路部分は踏切になっていたと。


南口を降りて、右手に植えられているのがネムノキ
  
(撮影 2014年6月 玉川上水のネムノキの花)
6月頃にはたくさんの花をつけ、行き交う人々を楽しませます。

周囲には桜も多いため、春になるとこの辺りはとても華やかになります
水路でカルガモが見られる頻度も高く、駅から降りてとりあえず玉川上水を眺める!という方も多く見かけます。


・清願院橋について
駅の南口を降りると、バス停のそばで「玉川上水(緑道)の歴史と由来」が見られます。
なかなか汚れてきているので、許可取って掃除したい...

(撮影 2015年10月)

そのパネルによると、
清願院橋は、芋窪街道と玉川上水の交差部に架かる橋で、明治39年(1906)に東京都水道局が作成した「玉川上水実測平面図」では、「八ノ橋」と記録されています。これは砂川村*1の玉川上水に架かる橋の中で、西から数えて八番目の橋という意味です。江戸時代に遡る古い橋ですが、橋架年代や橋名の由来は詳らかではありません。
とのこと。
八ノ橋という名前は初めて聞きました。

現在の清願院橋は1999年(平成11年)、モノレール開業時に架け替えられたもの。
それ以前には1971年(昭和46年)3月に作られた長さ7.9m・幅14mの橋が架かっていたとのこと。

*1 現 立川市は、元をたどると砂川村柴崎村に分けられる。多摩川近く、JR立川駅周辺は柴崎村。玉川上水周辺は砂川村だった。


追記。
工事時(1998年)に不発弾が見つかったことがあるというお話を伺いました。
駅前を掘り返していたところで不発弾が見つかったとのこと。
撤去が完了するまで西武線が不通になっていたらしい。これは大変だ。

軍事施設、軍需工場が多く、空襲を受けることも多かった立川周辺

(撮影 2007年 4月 旧日立航空機立川工場変電所)

玉川上水から北東へ数分のところに東大和南公園があります。
公園内にある、かつて変電所だった建物には機銃掃討、爆撃の跡が生々しく残されています。

玉川上水の工事期間は4月4日から11月15日の約8ヶ月間!あれ、計算が合わない?


(撮影 2015年5月)

四谷大木戸までの開削工事に関する話。

玉川上水の開削工事が始められたのは1653年(承応2年)4月4日。
四谷大木戸までの堀が完成したのは同年11月15日。
この記録が絶対に正しいものなのかは不明ですが、少なくともこの記録による工事期間は約7ヶ月ではないのです!

この時代の暦は旧暦。渋川春海が貞享暦を作る前なので、宣明暦。
ともかく調べてみると、この工事期間内に閏月(うるうづき)
*1あることが分かります。

この年の4月から11月まではこんな風に進んでいきます。
4月→5月→6月→閏6月→7月→8月→9月→10月→11月
6月が2回あるため、
4月4日から11月15日の間は8ヶ月とちょっと

また、新暦、つまり今の暦に変換しても、

1653年4月4日→1653年5月1日
1653年11月15日→1654年1月3日
となり、ほぼぴったり8ヶ月間となります。


*1 現在の「うるう年」とは全く別のもの。当時の暦では、一定の法則で閏月を加えることで1年を13ヶ月にし、ズレを調整した。


(撮影 2015年5月 玉川上水のホタルブクロ)


玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩




堀の長さは約43km。これを当時の道具・技術により8ヶ月で完成させたのだから、大変な早さ。
この早さで完成させるために、羽村から四ツ谷へ向けて順番に掘っていくのではなく、区間ごとに分けて同時に掘り進めた可能性が高いと言われています。
当然、極めて精度の高い測量と、同時に多人数に正確な指示を出すリーダーシップが必要になってきます。
さてさて、庄右衛門・清右衛門兄弟はどんな人物だったのでしょうか。


参考文献
肥留間博 (1991)『玉川上水―親と子の歴史散歩』たましん地域文化財団.

玉川兄弟銅像の話


(撮影 2015年4月)


羽村駅から徒歩15分ほど。
玉川上水の取水口である羽村堰付近にこの銅像はあります。

銅像に関する情報
・制作は1958年(昭和33年)9月 松野伍秀(まつのごしゅう) 氏*1によるもの。
・制作費は300万円。当時の町長*2である井上孝平氏が主唱、羽村水源愛護会、玉川兄弟銅像建設委員会の協力により作られた。
・正面から見て、右側に立っているのが兄の庄右衛門。左側が弟の清右衛門とのこと。
・庄右衛門が持っている縄のようなものは「間縄(けんなわ)」、清右衛門が持っている棒状のものは「間竿(けんざお)」。どちらも当時の測量道具。
・玉川兄弟が活躍したのは江戸初期。当然ながら、写真のようなものは残っていない。それどころか、当時の情報がほとんど残っていない*3二人をどうやって造形したのか。
→調べてみると、「歌舞伎役者をモデルにしたといわれています」とのこと。


*1 青梅市 釜の淵公園内にある板垣退助像も、この松野伍秀氏によるもの。
*2 昭和31年10月に町制施行、「西多摩村」→「羽村町」となった。つまり羽村町長。
*3 不明点の多い兄弟。羽村生まれとも多摩川ほとりの農民の出とも言われているが、正しいことは分からない。玉川上水完成から100年以上経過した1791年(寛政3年)に、幕府の普請方である石野広道によって書かれた『上水記』が主な記録。


インパクトの強い兄弟像。羽村堰を見にきた観光客の多くが、とりあえずこの像を写真に収めていきます。
ちなみに、玉川兄弟の墓は聖徳院(台東区)にあります。

この銅像の果たした役割のひとつに、「玉川兄弟グッズ」を作りやすくなったということがあるのではないかと思っています。
例えば羽村市郷土博物館で玉川兄弟の缶バッジが販売されていますが、かなりデフォルメされたシンプルなイラストで玉川兄弟が描かれています。
しかし、片方の男は立って遠方を指差し、もう一方の男は膝をつき竿を持っていることで「玉川兄弟だ!」と多くの人が認識できます
これはこの銅像あってのことですね。


参考文献
羽村市郷土資料館編 (1995)『玉川上水散策』 羽村市教育委員会.
福田恵一,飯島満 (2011)『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』農文協.