記録写真としてのパノラマ写真

iPhoneではお手軽にパノラマ写真が撮影できます。

戦場ヶ原を散策した際にふと思い出して、試してみました。

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iPhoneのカメラ性能にあまり期待していなかったので、今までほとんど使ってこなかったのですが、悪くない!

そして、玉川上水でも試してみたものがこちら。
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千手小橋より撮影。

良い所は、情報量が多いこと。
橋から一方向を撮った写真では分からないことがたくさん分かります。
数十年後に当時の様子を知るための記録としては良いデータになるかもしれません。

悪いところは、むりやりパノラマにすることで、実際に目に見えていた印象と変わってしまうこと。
また、撮影する場所によっては住宅や行き交う人々がどんどん写り込んで、公開することが難しい写真になってしまうかもしれません。


360度ビデオカメラというものも最近は人気が出てきているようです。
数十年後に記録として活かせる2015年の玉川上水の現状を、何か良い方法でアーカイブできないか、考えています。


普段の撮影に使っている単焦点のレンズや望遠レンズによる野草や野鳥の撮影では、周囲の様子が全く伝わりません。

(撮影 2015年4月 玉川上水のチゴユリの花)

例えば4月に撮ったこのチゴユリの写真、気に入っていますが、どんな場所にどのくらいの数咲いていたのか、この写真では情報不足!資料としてはいまいち。
きれいな写真を撮って、その場所の魅力を発信することは大事ですが、記録も大事。


桜が有名だった小金井周辺以外の玉川上水は、大昔の絵や写真があまり残っておらず、どんな様子だったのか知るのに苦労しています。


美しく撮ることだけに夢中にならずに、「記録すること」を意識して写真を撮りためようと思った今日このごろです。

森を学ぶ。木を学ぶ。ブナを学ぶ。

先日、日光、奥日光へ行ってまいりました。
3代将軍徳川家光公の時代の建築物、そしてたくさんの樹木を見ることが目的でした。


(撮影 2015年10月 戦場ヶ原)

奥日光では見渡す限りのミズナラ、アカマツの林、林床にはササ。
圧倒的な日光の杉並木。
そして日光植物園にて落葉する前のブナやイヌブナを見ることができました。
とても勉強になった!
詳しくはまた別の記事にて。


さてさて、こちらの植物マップ。
展示されているものを先日見ることができました。

1987〜1988年にかけて「玉川上水の自然保護を考える会(の前身となる講座)」で作られたものとのことです。(掲載許可いただいてます。)
一部のエリアではありますが、地図上に玉川上水沿いの樹木がすべて詳細に記録されています。これはすごい!

ある程度分かっていたことではありますが、この図を見て、そしてお話も色々と聞いて、あらためて玉川上水の樹林について納得。
その多くは、植栽されたサクラと雑木林で構成されています
植栽されたサクラは、よく見ると明らかに一定の間隔で植えられていて、人の手によるものであることが分かります。

雑木林の中身はコナラ、クヌギにエゴノキ、そしてシデ(イヌシデ、クマシデ)が中心。ケヤキ、エノキも一定数見られます。
ブナ科の中では基本的にはコナラが多数派。ですがクヌギの方が多いエリアも時々あります。少数ですがクリも。

(撮影 2015年11月)

武蔵野の面影を残す」と言われることもある玉川上水。
ここで言われる「武蔵野の面影」とは、万葉の昔に語られたススキ野の平原のイメージではなく、江戸初期〜中期、玉川上水開削後に新田開発が進む中で必要になった落葉樹を中心とした雑木林のイメージでしょう。
国木田独歩が描写した武蔵野の世界。

完全な人工水路である玉川上水土手に雑木林が侵食し、近代に周囲の宅地化が急速に進んだことで、結果的に玉川上水に武蔵野の面影が残った
一時期は大部分が空堀になってしまった玉川上水ですが、80年代に清流復活。
近いタイミングでたくさんの野鳥が都市部へ順応、放置され枯れ木も増えた玉川上水はキツツキたちにとっても住みやすい環境になった。

作られた当時は、未来に「玉川上水土手で野鳥観察や野草観察をする」なんてことが想定されていたとは思えません。
時代の流れの中で武蔵野の面影を背負うことになった、という考え方もできるかもしれません。
面白い現象です。





(撮影 2015年10月 シラカシの葉とどんぐり)

ほんの少しずつですが樹木の勉強が進み、樹木種判定能力が上がってきているのを実感します。
葉が全て落葉してしまう前に、2015年の玉川上水樹木調査、してみようかな!

玉川上水 10月の花だより その2

玉川上水で見られる野草、山野草、雑草、樹木、花をご紹介!


(撮影 2015年10月)
リンドウ(竜胆)の花
秋の花です。しばらく前に花をつけているのを発見。
日が当たっている時にしか花が開かないため、撮影に苦労しました。


(撮影 2015年10月)
ミズヒキ(水引)の花
三鷹駅付近など、あまり手入れがされていないように見える土手にも多く見られました。
知らない人は花だと気が付かないかも!?


(撮影 2015年10月)
ヤクシソウ(薬師草)の花
名前のわりに、ほとんど薬効はないそうです。
秋に小さな黄色い花をつけます。

玉川上水と小金井の桜

現在では、玉川上水の出発点羽村堰で見事な桜が見られるようになっていますが、江戸時代の玉川上水における桜名所といえば、なんといっても小金井です!


(撮影 2015年3月 小金井市内の玉川上水の桜)

さて、小金井桜のルーツを遡って行くと、8代将軍徳川吉宗公(暴れん坊将軍としておなじみ)の時代にたどり着きます。
江戸中期ですね。

小金井橋付近の解説板から引用すると、
幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜麩側など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。
とのこと。

桜の花に、水の解毒作用があると考えられていたという説もあります。当時、土手の雑草やゴミが水路に落ちないように細心の注意が払われていたようなのですが、桜の花びらに関しては、水路に落ちていくのをむしろ歓迎していたのかもしれません。

(撮影 2015年4月 桜樹接種碑 「さくら折るべからず」)

江戸後期に桜の名所して有名だったのは、上野、品川、墨堤、飛鳥山、そして小金井です。
そのほとんどは吉宗公の命により、植樹されていったもの。
徹底的な倹約方向に進みがちだった享保の改革
溜まりがちなストレスを発散させる場所として「花見」という娯楽を用意したのだと考えられます。

上野や墨堤はともかく、品川、飛鳥山、小金井は江戸の中心からちょっとした距離があるというのもポイント。
しっかり歩いて体力を使うことも、やはりストレスの解消につながります。
苦労して辿り着いた先の桜はきっと格別だった。よーく考えられている!


人気のあった江戸後期の小金井桜は、多くの浮世絵や地誌に登場します。
天保年間には水野忠邦*1、そして13代将軍徳川家定公*2もこの桜を見に訪れています。

現在よりも間違いなく水量の多かった当時の玉川上水は、完全に「川」に見えます。
そして、現在のように放置された多くの樹木が鬱蒼と茂ることはなく、明るい並木道という雰囲気。

この頃描かれたいくつもの小金井の絵からイメージをつなぎあわせて、当時の様子を頭に思い浮かべてみると、その美しさに涙が出そうになります。


さて、時代が進み、1924年(大正13年)には小金井の桜が国の名勝に指定されます
明治期に甲武鉄道が開通したことで、東京中心部からのアクセスもぐっと便利になっていました。

しかし、戦後には樹木の老化や周囲の都市化によって、徐々に衰えていってしまうのです。
小金井辺りの玉川上水緑道は、両脇が車通り多い車道になっているため排気ガスの影響も受けやすいのでしょう。
立川から小平にかけての静かな緑道と比べると、のんびり静かに散歩することは難しくなっています。

1954年(昭和29年)に小金井公園が開演すると、徐々に桜の名所としての中心地は公園内に移っていきます

(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)

現在では小金井公園が「小金井桜」の伝統を受け継ぐ桜の名所として親しまれています。

そして、アクセスが若干不便*3なことが上手く機能しているのか、花見シーズン真っ盛りでも比較的落ち着いて桜を楽しむことができます。

(撮影 2015年4月 小金井公園内の桜)
これだけの桜の下に人の影がほとんど見えない。朝早くの小金井公園。


(撮影 2014年11月 小金井公園内の桜)
品種も豊富。冬桜系も多く植えられていて、秋冬にも花の咲く桜を見られます。



小金井桜が小金井公園内に受け継がれていったように、玉川上水の歴史や自然も、その時代に合った良い残し方・受け継ぎ方を考えていけたら、と思います。



*1 誰もが学校の授業で習う「天保の改革」を行ったその人である。改革が厳しすぎたため後に失脚。
*2 厳密には小金井を訪れた頃にはまだ将軍職ではない。世継の頃。
*3 北には西武線花小金井駅、南にはJR武蔵小金井駅 or 東小金井駅、どちらからも気軽に徒歩で行ける距離ではなく、多くの客はバスを利用する。徒歩の場合、武蔵小金井駅よりは東小金井駅の方が若干アクセスが良いとのこと。