殿ケ谷の阿豆佐味天神社


瑞穂町の阿豆佐味天神社です。
今では立川市内、砂川地区の阿豆佐味天神社の方が有名になってしまった感じもありますが、こちらが総本宮。


阿豆佐味天神社は狭山丘陵の麓に位置しています。
住所としては殿ケ谷。ここから少し東へ歩けば。それぞれ殿ヶ谷村岸村だった場所に現在でも地名として残っています。

玉川上水が開削される前は、水を得られる場所がかなり限られていた武蔵野(特に西側)。
そんな中で、昔からの定住者がいたのは川沿いの他、湧き水を得られる崖や山の麓。狭山丘陵の麓もそんな場所の一つです。
新しい村の開拓者はこのあたりから出発していったわけですね。立川市北側部分の砂川村を開拓した村野(砂川)氏、現在の小平市内にあった小川村を開拓した小川氏はともに岸村出身です。
砂川の阿豆佐味天神社、小平の小平神明宮は、新しい村の開拓にあたり、出身地の神さまを守り神としてそれぞれ勧請したものです。

昔の歴史をたどると、殿ヶ谷村と岸村は関係が深く、セットになっているようなイメージもあるのですが、現在は瑞穂町と武蔵村山市に分かれてしまっています。


阿豆佐味天神社境内に現存している神明宮
教育委員会のパネルどころか、ちょっとした表示も何もなく、ひっそりとしています。
ここから勧請した小平神明宮の立派さと比べると、あまりにも貧相で驚きます。


神楽殿も現存していますが、現在使われている様子はありませんでした。



アクセスについて。
車がなければ、最寄り駅は箱根ヶ崎駅になります。
徒歩の場合、駅から阿豆佐味天神社まで30分程度かかると思います。
バスを利用すれば気軽に行けますが、個人的には残堀川沿いに歩いて行くことをオススメします。カワセミに出会えることもあるかも!


箱根ヶ崎駅内に、瑞穂町の特産品展示、観光案内があります。
「瑞穂町駅」「瑞穂駅」といった駅はなく、この箱根ヶ崎駅が観光のスタート地点として機能しています。


訪れたタイミングでは雛祭りイベント関連の展示も駅内で行っていました。

ところで、多摩都市モノレールを上北台駅からこの箱根ヶ崎駅まで接続する計画があるのだとか。(現在の終点から北西に伸びていくことになりますね。)
砂川村と、その開拓者の出身地だった狭山丘陵南側は、江戸時代には深い関係にあったようですが、アクセスの不便さから若干疎遠になってしまっている感じがあります。
それがつながることになるのか...良いことも悪いことも様々ありそうですが、驚きの計画です。

玉川上水の地下を歩く

西武拝島線と多摩都市モノレール「玉川上水駅」から少し南へ。




地下へ潜る、自転車と歩行者用の通路があります。

「自転車はおりて通りましょう。」とありますが、慣れた現地住民は乗りながら通行することもあるようです。あまりよろしくない。

もともと(モノレールが完成する前、西武線のみが東西に通っていた頃)はこの写真の左奥くらいに踏切があり、通行者と車が南北に行き来できるようになっていました。

渋滞解消目的などの理由で、踏切は廃止に。
車道も含め、地下を通り南北を通行する形になりました。

玉川上水は、羽村から新宿までを水路で横切っているわけです。
そのため、車で南北に移動したい需要があったときにはどうしても邪魔な存在になってしまいます

立川を南北に移動する芋窪街道も重要な道。
ちょうどここに駅があったために、地下を通るという選択になりましたが、ここも車がびゅんびゅん行き来する通りになっていた可能性もあったのでしょうね。


地下を進むとこんな雰囲気。
昼間でも少し薄暗くなっています。


おそらくこのあたりの上が玉川上水のはず...!!

印などは特に何もありません。

小金井村→小金井市。羽村→羽村市。何かおかしくないだろうか

多摩の多くの「市」は、江戸時代に成立した村がやがて町となり、その町がいくつか統合してできたものです。

立川市の例では
柴崎村→立川村→立川町→→→立川市
砂川村→→→→→砂川町→↑統合
こんな順序になっています。

基本的に、◯◯村→◯◯町→◯◯市と変化していくわけですが、そのルールから逸脱している市があります。
そう、玉川上水取水口のある羽村市です。

羽村市はもともと、羽村、五ノ神村、川崎村の3つの村だったものが統合し、西多摩村に。
その西多摩村が羽村町となり、やがて羽村市になりました。
問題は、西多摩村になった部分ではなく、羽村町の部分。

本来ならば羽町になり、その後羽市になるはず。なぜこうなってしまったのか。

羽村市の羽村は「はむら」と読みます。
しかし、村としての羽村は「はねむら」と読んでいたようです。
現在でも、羽村市内に「羽」一文字で「はね」と読む地名がいくつも残っています。

いつのまにか訛って「はねむら」を「はむら」と呼ぶようになり、町へ移行する際に羽町(はまち)ではあまりにも語感が良くないため、羽村町(はむらまち)としたのではないかと推測しています。



特に玉川上水と隣接していた村を中心に、村→町→市の変遷は一度きちんとリストにまとめたいと思っています。



そういえば、羽村取水堰が土木学会選奨土木遺産に認定されていたらしく、プレートが設置されていました。
調べてみると、平成26年度に認定されたとのこと。そして平成27年(2015年)11月、つまり去年の11月にプレートを設置したということですね。

まだ設置されたばかり。以前にはなかったものなので、見つけた時には少し驚きました!

玉川上水の「提灯測量」は誰が言い出したのか

羽村市教育委員会『講座 玉川上水』より
たまたま阿部弘蔵さんの「玉川上水ノ工事」という論文の中に夜間測量のやり方が非常に具体的に書いてありますが、原点については明らかではありません。
とのこと。
阿部弘蔵は幕末〜明治期の人物で、彰義隊にも参加していたようです。
現在でも読むことができる著作がいくつか。

この阿部弘蔵氏の記述により、夜間に提灯・線香測量をしたような噂が広まったのか、そもそもそういう噂があったので阿部氏がそういう記述をしたのか、順序は分かりません。

杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』にも、線香測量の場面が登場
羽村市郷土博物館にも提灯・線香測量の様子の再現展示があり。

現代でも提灯・線香測量を行った噂はぼんやりと広がっていますが、小説や展示の影響なのか、大昔から人から人へ伝わってきた昔話なのか、はっきりとは分からなくなっています。

最近では「提灯・線香測量は行わなかった」という説の方が優勢、その上で昔話として楽しんでいる感じがあります。