玉川上水 空堀に関するメモ

玉川上水が空堀化する流れについて、時系列順にまとめ。


1965年(昭和40年)、淀橋浄水場が廃止。

淀橋浄水場が廃止になった時、千川上水、三田用水、品川用水はまだ分水していた。
品川用水は仙川の水田に使う分水。

千川上水は板橋浄水場へも送られていた。大蔵省印刷局王子工場(北区)が1971年(昭和46年)まで使用。
その後工業水道にきりかえ。
そのタイミングで小平・小金井の玉川上水が空堀に。

しかし三田用水はその三年後まで恵比寿のビール工場で使用。
そのための水は村山貯水池から境浄水場へ送った原水の一部を玉川上水に流していた。

その後、原水を少しでもムダにしたくないという東京都の考えにより、監視所から下流を水のない川に。

ただ、井の頭公園をすぎた三鷹市牟礼から下流では、しみだした地下水が流れとなっていた。
都水道局小平監視所から下流に、ほとんど水が流されなくなった間も、井の頭恩賜公園裏の「新橋」付近から下流には、いつも澄んだ流れが見られた。井の頭池は「七井の池」と呼ばれ、湧水が豊富だったから、「新橋」付近に湧水があっても不思議ではない。現在、下流の方に水量が多く見られるのは、井の頭付近の湧水が加わっているのではないか。
アサヒタウンズ編(1991)『玉川上水―水と緑と人間の賛歌』より。



玉川上水の通水について簡単に説明した文章を読むと「1965年(淀橋浄水場が廃止)〜1986年(清流復活)の間、小平より下流はまったくの空堀だった」という印象を受けてしまうがそうでもない!というところがポイント。
※もちろん、水量は多くなかったため、どちらにしても壁面の崩壊が進む原因にはなっていました。



「20年の間、小平から先は空堀だった」と「43Kmにおよぶグリーンベルト」は玉川上水2大ガセと言ってもいいのかもしれない。
緑道はあちこち途切れてしまっています。どちらの情報も完全に間違いだとは言えないものの、簡単な説明を受けた場合にそういう印象を持ってしまう可能性があるというタイプのガセです。



参考文献
肥留間博 (1991)『玉川上水―親と子の歴史散歩』たましん地域文化財団.
渡部一二(2004)『武蔵野の水路―玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会.
ほか


追記。さらに裏付け。

江戸東京たてもの園 特別展「小金井の桜 ー春の江戸東京名所めぐりー」の記事にも書いたように、

「名勝小金井 桜絵巻」 という冊子の中に
しかし、昭和四六年頃、小平監視所より下流の玉川上水の通水が停止してからは、次第に水路の荒廃が進み、ケヤキを中心とする高木が旺盛に繁茂し、わずか二〇年ほどで雑然とした雑木林に変わってしまいました。
と記述されています。
昭和46年=1971年。
やはり1965年(昭和40年)に淀橋浄水場が廃止したタイミングではないですね。

追記。
「玉川上水と用水 会報第一号」より
小坂克信先生による橋の実測についての文から。

1983年(昭和58年)時点での調査内容から、水のあるなしが伝わってくる。
まつかげ橋あたりから、深さは5m以上になるが、子どもが降りて、橋の下あたりによどんでいる泥水の中からザリガニを取っている。

ザリガニ取りは、井の頭橋、宮下橋、あずま橋、岩崎付近でも見かけ、宅地の中に住む子にとっては、数少ない自然と触れあう機会になっているようだ。

牟礼橋の下流では、カルガモが泳いでいる。なお、茜橋付近の川底は水がなく、腐葉土状でフワフワしているが、この付近に水があるのは、どうしてか疑問に思う。
維持通水の他に、どこからか流れ込んでくる水もあっただろうし、雨が降れば水は多少増える。
水不足の時期を除けば、全くの空堀になることはなかったはず。