砂川源五右衛門

砂川源五右衛門の生い立ち・経歴など



砂川 源五右衛門(すながわ げんごえもん / げんごうえもん 天保9年(1838年) - 明治44年(1911年))

砂川源五右衛門の生涯

北多摩郡砂川村(現立川市)の名主の家に生まれる。源五右衛門は通称*1であり、諱は泰忠。旧姓は村野*2
立川の昔話にも登場し、身の丈六尺(180cm以上)、体重二十七貫(約100kg)という巨漢。


小さい頃から武術を好み、江戸麹町番町にあった斉藤徳心斎のもとに入門。神道無念流の免許皆伝となったが、23歳の時(1861年頃?)、さらに上でを磨くため武者修行に出た。(立川のむかし話)

1863年(文久三年)村民を代表して中山道蕨宿への助郷を免除して欲しいとの願書を道中奉行に提出。(砂川の歴史)
1863年時点で間違いなく名主だったようである。

1864年3月、武者修行として房州銚子の宿へ。天狗党と疑われ、襲撃される。

1867年 玉川上水 通船願いを提出。
1868年 年号が明治となる。
1870(明治3年)〜1872(明治5年)の間、通船。
玉川上水の通船に関わったのは30歳前後ということになる。


明治維新の頃(詳細な時期は不明)、砂川に強盗が入った。村民が逃げた強盗を捜索していると、あやしい男が見つかったため捕らえた。実はその男は百姓姿に変装して農村の生活ぶりを見ていた三条実美公だったのだが、源五右衛門はひと目見て、強盗でないことを見ぬいた。それがきっかけで三条実美との交流が生まれたという。
通船の実現、砂川姓への改姓も三条実美との関わりが関係あるとも伝えられている。(立川のむかし話)


1878年、政府は郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の「三新法」を発令。これにより「三多摩」が出現。
北多摩郡長には砂川源五右衛門、南多摩郡長には佐藤彦五郎、西多摩郡長には細谷五郎右衛門がそれぞれ初代郡長として任命された。
北多摩郡の庁舎は府中、南多摩郡の庁舎は八王子、西多摩郡の庁舎は青梅に設けられた。砂川源五右衛門、佐藤彦五郎はそれぞれ毎日7〜8kmの道を通った。
砂川源五右衛門が腰に弁当をぶら下げて大股で闊歩する姿が評判になったという。(未完の「多摩共和国」)

任命されたのは明治11年(1878年)11月18日から9カ年。県令野村靖の知遇を得ていたためといわれる。40歳〜50歳ごろということになる。
自宅から郡役所までも3里(=約12km)を徒歩で通った
毎朝脚絆に草鞋履きで麦飯の弁当を持ってでかけた。(府中市史 中巻)
あまりの質素さに、郡役所の吏員たつが閉口して、郡長に徒歩通勤をやめてもらいたいと陳情に及び、以降は人力車で通勤するようになったという。(立川市史 下巻)

「北多摩郡の郡長」といえば、府中の人々にとっても地元北多摩郡の砂川源五右衛門であって、それ以外の人ではありえない、というような存在である。(府中市史 中巻)

明治20年の終わりに、県庁の力によって更迭される。しかし、北多摩と結びつきの強かった源五右衛門に対し、その後郡長となった渡辺管吾は北多摩と何のゆかりもない人物だったため、源右衛門氏の復職を望む声も多かった。

1881年1月5日、北多摩郡の有志を集めて民権結社「自治改進党」を結成。砂川源五右衛門は社長に就任
自由党が結成されると解散し、砂川源五右衛門も自由党員となった

衆議院議員に立候補したこともあったが敗北。→どのタイミングが不明。

1889年(明治22年)、甲武鉄道が立川駅まで開通。立川駅の駅舎は北側に作られたが、これには甲武鉄道の株主だった砂川源五右衛門の力によるものもあったという。
(現在では大きく発展している立川駅北側だが、当時は桑畑ばかりで家一軒もないような場所だったが、砂川村から物資や人を運ぶのには北側のほうが便利だった。)(郷土史講座 立川の歴史散歩)



*1 といっても、北多摩郡長の職についてからも「砂川源五右衛門」で通していたようである。
*2 「旧姓」という考え方でいいのか、調査不足。幕末(1848年=嘉永元年)時点の御鷹場案内役に関する記録では、「村野源五右衛門」表記になっている。

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砂川源五右衛門について分かったことをまとめました。

大きな流れとしては、
・〜30歳?→武術の腕を磨く。武者修行にも。水戸の天狗党とも関わりがあった?
・30歳前後→砂川村名主として、玉川上水通船を実現させる
・40歳〜50歳→北多摩郡長として活躍。併行して自治改進党社長、自由党員として自由民権運動に関わる

こんなところでしょうか。

前に「砂川源五右衛門さんを調べたい」の記事で書いたように、なかなかまとまった情報がなく、調べるのには苦労しました。
ポイントは、砂川源五右衛門の住んでいた砂川村、立川市関係の資料を探すのではなく、自由民権運動関連や、府中市(北多摩郡庁舎があった)についての資料を探すことでした。


自信がないものの、源五右衛門の父が「栄左衛門(榮左衛門)」ということでほぼ間違いなさそう。砂川の阿豆佐味天神社に「願主 村野榮左衛門」と記された狛犬が現存しています。

源五右衛門分水の開設が本当に1910年(明治43年)であるのか再調査したい。これが正しいのならば、砂川源五右衛門が亡くなる一年前に作られたことになる。
→やはり1910年であっている。源五右衛門分水についてのパネルを見ると、「明治初めの名主家当主の名前にちなんだ『源五右衛門分水』の取水口」とある。よく考えたら「砂川源五右衛門が作った」とは書いていない。


立川駅周辺に馬車で訪れる姿も有名。これはどの時期なんだろうか?調査中。
作者の説明では明治36年。もう高齢の時期。

明治2年(1869年)か5年(1872年)のどちらかに(調べると二つの年が出てきてしまうので情報を見定めたい)、「名主制の廃止」が行われている。ということは人生の後半は「名主」ではなかった?

諱が泰忠であることも今回はじめて知りました。砂川泰忠
"砂川源五右衛門"で検索しても出てこなかった情報が、"砂川泰忠"で検索するとわずかに出てきます。
今のところ、Wikipediaの記事も登録されていない砂川源五右衛門ですが、コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)に砂川泰忠の名前で掲載されている!

ちなみに、源五右衛門の読み方について正式には「げんごうえもん」となっていますが、会話の中では「げんごえもん」と発音してしまっても問題ないと思われます。
たとえば石川五右衛門の「五右衛門」を、「ごうえもん」とはほとんど読まないですよね。

砂川源五右衛門の写真はどの資料で見られるか?

『府中市史 中巻』にハッキリとした写真あり。郡長の頃なのか、わりと高齢に見える。
『郷土たちかわ』に、なんとちょんまげ姿の写真が掲載されています。
『多摩の民権家と結社』にも比較的若い頃と思われる写真が掲載。こちらの写真は、実際には3人の集合写真になっているものを切り取ったもの。
→明治12年に田村半十郎、指田茂十郎、砂川源五右衛門の3人の県議会議員で撮影したもの。 『福生市史 下巻』399ページ等で見られる。『福生市史 下巻』はwebでの閲覧も可能

まだまだ探すと見つかりそうです。
とにかく特徴的なのは、太い眉毛と彫りの深い顔。

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参考文献
府中市史 中巻
郷土たちかわ
佐藤文明『未完の「多摩共和国」新選組と民権の郷』
町田市立自由民権資料館『多摩の民権家と結社』
ほか