玉川上水のお茶!


なんと、「玉川上水」という名のお茶があります。
こちら。


小平にある、狭山茶問屋 鈴木園さんのお茶です。


いくつかバリエーションはありますが、狭山茶ということで、この「玉川上水」の多くは狭山の深蒸し茶です。

「玉川上水」という名のお酒があるというお話も聞いたことがあります。

さてお茶。

江戸時代の人々はどんなお茶を飲んでいたのでしょう。

広く「武蔵野」というくくりでは狭山を中心としたお茶どころがありますが、「多摩」に限るとお茶向きの土地とは言えず、大規模な茶畑は見られません。*1

情報は少ないものの、「江戸市中の茶店で出す茶は狭山産が主だった*2という記述を見つけました。
現在の狭山茶は深蒸し茶が中心ですが、深蒸し製法が確立されるのは近代なので、緑色のお茶ではなく山吹色のお茶だったと思われます。
江戸初期/中期/後期に、どんな身分の人が、お茶をどんな茶器で淹れていたのか、時代考証としては難しい部類に入るものだと思います。

多くの人が「お茶」と聞いてイメージする、「煎茶」の歴史は以外に新しく、江戸初期に黄檗宗とともに中国から伝えられてからのものです。
奇しくも、黄檗宗の僧、隠元隆琦が来日したのは1654年。玉川上水が完成し、江戸市中へ通水を開始した年です。
その後、日本中を歩いて煎茶を広めた売茶翁、製法を洗練させた山本嘉兵衛永谷宗円らによって日本の煎茶文化が発展しました。
山本山永谷園、どちらも長い伝統を持つ会社として続いています。

煎茶が普及する前にも後にも、簡単な加熱をした後に煮出して飲むお茶は庶民の間で飲まれていたようです。
多摩には畑の周囲には、囲いとしてよくチャノキが植えられています。
それを利用して、素朴なお茶を飲んでいたこともあったのかもしれません。

今現在手に入るものとしては、「山茶」がこれに近いものでしょう。
明治神宮の売店に、昔ながらの製法で作られた 明治の山茶が売っています。
これ、素朴でおいしいのでおすすめです。茶粥にするもよし。


*1 最近、実際に国分寺でお茶を育てて作っている「国分寺茶」があることを知り、驚きました...!!

*2 大森洋平『考証要集』より。三田村鳶魚の説とのことなので、信憑性はどうなんだろうか。

砂川源五右衛門さんを調べたい

玉川上水沿い、現在の立川市内の砂川村。
明治時代にその砂川村の名主様だった「砂川源五右衛門」という人物がいます。

立川の昔話にも登場し、なんと身の丈六尺(180cm以上)、体重二十七貫(約100kg)という巨漢
小さい頃から武術*1を好み、神道無念流*2の免許皆伝。
若いころに武者修行にも出ていたようです。

そんな源五右衛門ですが、明治に入ると玉川上水の通船を計画し、願い出ます。
また、後に北多摩郡の郡長にもなっています

昔話と近代を横断する不思議な人物像
まとまった情報はなかなか見つからず、地道な調査研究が必要になりそうです。

源五右衛門分水は、玉川上水の最も新しい分水。1910年(明治43年)開設。

その側に巴河岸跡もあります。



1870(明治3年)〜1872(明治5年)。
たった2年間の通船でしたが、大きな影響力があったようです。
船は、多摩川と上水路沿岸の村々の産物(野菜、炭、薪、酒、たばこ、ぶどう、茶、木綿、紙等)を運び、帰りに肥料や生活用品を輸送した。上りは、人力で曳舟をした。
上りは人力で曳舟、というのは江戸時代にはよく聞く話です。
最盛期には100艘以上の船が行き来したとのこと。

便利な輸送手段でしたが、水の汚染等を理由に廃止。
1889年には新宿ー立川間に甲武鉄道が開通し、新たな輸送手段に
新しい時代がやってきます。


*1 江戸時代、特に幕末の多摩は武術がとても盛んだった!出稽古によって、江戸・多摩各地のネットワークも生まれていた。そんな中から後に新選組となる近藤勇、土方歳三も誕生。彼らも多摩農家の生まれである。

*2 神道無念流を学んだ人物として有名なのが、桂小五郎(木戸孝允)。新選組の中では永倉新八がそう。近藤勇は天然理心流。坂本龍馬は北辰一刀流。
砂川村にも井滝伊勢五郎という人物による天然理心流の道場があり、少年時代の近藤勇がよく来ていたらしい。

参考文献
立川市教育委員会 (1977)『立川のむかし話』.
小泉智和 (2002)『玉川上水ぶらり散歩』日本水道新聞社.


追記:2016年2月
別記事「砂川源五右衛門」でそこそこ調べました。

ワカケホンセイインコ襲来!

今年の3月の話です。

玉川上水の桜が少しずつ開花し始めた頃。


(撮影 2015年3月)

早朝に突然やってきた緑色の飛行物体!
数匹のグループで飛んできて、桜の枝に着地。
そして…


花ごとむしり取る!

 

ほんの2、3分のできごとだったと思います。
咲きはじめた桜の花をすごいスピードでむしり取っては食べ、むしり取っては食べ、あっという間に去って行きました。


ワカケホンセイインコが東京にすみついたのは1960年代末頃だそうです。
世田谷区内のペットショップより、輸入された百数十話の若鳥が逃げ出したのがおそらくはじまりなんだとか。
当然ながら、元来日本に生息していた鳥ではありません

現在では、異常な数の群れが都内でもあちこちで見られます。
とりあえず、西寄りの玉川上水緑道は群れのねぐらになっている気配はありませんが、まれにやってくることがあるようです。

やはり外来種ということで、生態系への影響が心配されています
が、彼(女)らに罪があるわけではありません。
外来種でありながら、生態系への影響も小さく、多くの人に愛されているコジュケイと比べると、ちょっとかわいそうな存在ではあります

シュロというヤシ科の木


(撮影 2015年11月)

シュロです。


玉川上水緑道の、雑木林タイプのエリア、放置されてきたであろうエリアでよく見かけます。
常緑樹。

中途半端な異国情緒感南国感が個人的にはあまり好きではありません。

異国情緒感と書きましたが、似ている2種、シュロ(ワシュロ)とトウシュロのうち、シュロは一応九州あたりには自生していたものらしいです。
ヤシ科であり、つまりヤシの仲間。南国感はそこから。

放置され日陰の多くなっている林でも育ちやすいようで、東京でも増殖中
玉川上水でも増殖中なのか、若い株も見かけます。

(撮影 2015年11月)

液果が10〜12月にできるとのこと。今度探してみようと思います。
野鳥もよく食べるらしく、シュロが広まる一因に。


雑木林の中ではやや異質の存在であるこのシュロ。
安易に除伐を!とは思いませんが、このまま増えていって大丈夫なんでしょうか。
観察と勉強をこつこつ続けていきます。