柴刈りに行ったおじいさんは山を登っていないかもしれない


 (撮影 2014年11月 ヤマガラ)

知っている方にとっては常識かもしれませんが、昔は雑木林のことを「山」と呼んでいたそうです。
(関東が中心の方言かもしれません。)
はるか昔の話というわけではなく、今でも年配の方にお話を伺うと自然に「山」という言葉が雑木林の意味で登場することがあります。


多摩の昔話にもこの「山」がよく登場します。
そして意味を取り違えると話の筋が変わってしまいます。

さてさて、「おじいさんは山へ柴刈り(芝刈りではないよ!)に」なんて話がありますが、おじいさんはわざわざ山には登ったわけではなく、近所の雑木林へ出かけていたのかもしれませんね。

対話型記事のテスト

キャラクターが対話するような記事を書きたくて、画像と文字表示のテストです。

「こんにちは!」

ここから次の行

「博士です。」

ここから次の行

「えええっ!?」

画像と文字を大きくしました。



「博士!玉川上水のことを教えてください。」


「そのうちね。」


PCでもスマホでもバランス良く見えるように調整することは難しい...!!


「行数が多くなると表示はどうなるの?テストするよ。じゅげむじゅげむごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょのすいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの ちょうきゅーめいの ちょーすけ!!あんまり文字数が多いから、画像の下に回りこんじゃったー!」


玉川上水のお茶!


なんと、「玉川上水」という名のお茶があります。
こちら。


小平にある、狭山茶問屋 鈴木園さんのお茶です。


いくつかバリエーションはありますが、狭山茶ということで、この「玉川上水」の多くは狭山の深蒸し茶です。

「玉川上水」という名のお酒があるというお話も聞いたことがあります。

さてお茶。

江戸時代の人々はどんなお茶を飲んでいたのでしょう。

広く「武蔵野」というくくりでは狭山を中心としたお茶どころがありますが、「多摩」に限るとお茶向きの土地とは言えず、大規模な茶畑は見られません。*1

情報は少ないものの、「江戸市中の茶店で出す茶は狭山産が主だった*2という記述を見つけました。
現在の狭山茶は深蒸し茶が中心ですが、深蒸し製法が確立されるのは近代なので、緑色のお茶ではなく山吹色のお茶だったと思われます。
江戸初期/中期/後期に、どんな身分の人が、お茶をどんな茶器で淹れていたのか、時代考証としては難しい部類に入るものだと思います。

多くの人が「お茶」と聞いてイメージする、「煎茶」の歴史は以外に新しく、江戸初期に黄檗宗とともに中国から伝えられてからのものです。
奇しくも、黄檗宗の僧、隠元隆琦が来日したのは1654年。玉川上水が完成し、江戸市中へ通水を開始した年です。
その後、日本中を歩いて煎茶を広めた売茶翁、製法を洗練させた山本嘉兵衛永谷宗円らによって日本の煎茶文化が発展しました。
山本山永谷園、どちらも長い伝統を持つ会社として続いています。

煎茶が普及する前にも後にも、簡単な加熱をした後に煮出して飲むお茶は庶民の間で飲まれていたようです。
多摩には畑の周囲には、囲いとしてよくチャノキが植えられています。
それを利用して、素朴なお茶を飲んでいたこともあったのかもしれません。

今現在手に入るものとしては、「山茶」がこれに近いものでしょう。
明治神宮の売店に、昔ながらの製法で作られた 明治の山茶が売っています。
これ、素朴でおいしいのでおすすめです。茶粥にするもよし。


*1 最近、実際に国分寺でお茶を育てて作っている「国分寺茶」があることを知り、驚きました...!!

*2 大森洋平『考証要集』より。三田村鳶魚の説とのことなので、信憑性はどうなんだろうか。