桃川鶴女 講談「玉川上水の由来」

女流講釈師 花の十二人! 桃川鶴女「玉川上水の由来」 
女流講釈師 花の十二人! 桃川鶴女「玉川上水の由来」


なんと、玉川上水をテーマにした講談の演目があります!

桃川鶴女さんによるこのCDは録音も新しく(2008年11月)、とても声がクリアなので聞き取りやすい!

さて本日は玉川上水の由来の一席(バンッ!!)
 しばらくお付き合いいただきたいと存じます(バンッ!!)
 承応の二年…
もうこれだけでかっこいい!


ただ、この「玉川上水の由来」がいつ頃にできた演目なのかはよく分かりません。
江戸後期〜明治初期くらいなんだろうか?
どうやって調べたらいいのか分からないな。うーむ。


ちなみに、玉川上水に関する新作落語もあります。
「ある」といっていいのかはなんともいえませんが。

玉川上水からの通学者も多い武蔵野美術大学。
かなり昔、その武蔵野美術大学の落研サークルで、玉川上水に関する新作落語を作り上演していた遊々亭迷々丸さんという方がいました。
なんと、今の林家たい平さんです!笑点でお馴染み。

たぶん現在ではその新作落語は披露していないはず。
玉川上水に関するイベントの中で、いつかやってほしいな!

「玉川上水の由来」あらすじ


承応2年(1653年)11月の末、珍しく大雪の降った江戸の麹町。
(四谷大木戸までの水路が完成直前である。)

疲れきった兄の庄右衛門は按摩の松の市に療治を頼みます。
玉川村の百姓だと名乗ると「もしや噂になっている庄右衛門さんでは」と。
この講談の世界では「多摩川から水を引く計画を実行する兄弟は、お上からふんだんに金をとって自分の懐へ入れ、人足には給金を払わない」と悪い評判が立っているらしいのです。
弟の清右衛門は雪の中金策に走っているが、悪いうわさの影響もあり、なかなかうまくいきません。
実際、山や田を売って工事につぎ込んだが金が足りず、支払いが滞っているのです。
しかし、話を聞いてみると噂とは違う庄右衛門の真っ直ぐな思いに松の市は感動します。

さて、この按摩さん、松の市は座頭(仕事をする盲人の階級のようなもの)になるために、三十数年もの間食べるものも食べず三百両という大金を貯めていました。
けなげに頑張る松の市に対し、療治代だといって庄右衛門は一両を差し出します。

・・・・・・・・・

さて、結局金を借りられず、給金を払うことができない兄弟は人夫たちに責められます。
いよいよ人夫たちの怒りが爆発する…というところに三百両の大金が届きます。
松の市が長い時間をかけて貯めこんだお金でした。
江戸のために必死に努力する兄弟に心を打たれたのでしょう。

・・・・・・・・・

無事に給金を払うと、工事は意外にはかどり、12月25日には水路が四ツ谷まで完成する。
江戸の市中へ水が入り込むと、江戸八百八町の人々は3日間のお祭り騒ぎ。
兄弟には玉川の姓が許され、それぞれに100石与えられます。

めでたしめでたし。

・・・・・・・・・

ラスト直前には、
「この功績をたたえまして、石碑が四谷四丁目の交差点のところに『四谷大木戸水道牌』、そして兄弟の銅像が羽村の町に立っております。」と出てきます。

 水道碑記(すいどういしぶみのき)のことならば1895年(明治28年)に完成したもの。
(玉川上水開削の由来を記した記念碑。)

四谷大木戸跡牌のことならば、1959年(昭和34)年11月地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られたもの。


玉川兄弟の銅像は1958年(昭和33年)9月に作られました。

昭和中期にこの一文が講談の内容に追加されたのか、この演目が講談として成立したのも、そもそもそのくらいの時期なのだろうか...?


「玉川上水の由来」つっこみどころ

講談ということで、やはりフィクション性が高くなっています。

意外なのは「玉川村の百姓」という設定。
えどの町人だった説、羽村に住んでいた説などいろいろありますが、玉川村の百姓であるという説はあまり聞きません。
話を分かりやすくするための設定のような感じがします。

玉川兄弟が百姓であった可能性はあるようなのですが、ただの百姓が大規模な水路の工事を請け負うというのはかなりの違和感があります。
なんらかの形で土木工事に関わる仕事をしていた可能性が高いのではないでしょうか。


また、玉川兄弟と関わった按摩の松の市という人物についても、この講談以外では聞いたことがありません。
※「松の市」という名前は、按摩さんとしてはよくある名前だと思われる。

吉田吉之助文庫の庖丁余語第八号 『玉川上水物語』(昭和46に書かれた)の内容がこの講談「玉川上水の由来」によく似ている。関連性は?