立川市唯一の山 金比羅山を登る
といっても、玉川上水緑道からそのまま山に登ることはできません。
歩いて行くと、こんな看板が。
参道は山の南側です!
ぐるっと山を回りこんで入り口を目指します。
木製の鳥居が良い雰囲気。
入り口付近の説明によると高さは15mほど。
決して高い山ではありませんが、たしかに階段で登っていきます。これは山だ!
階段を登る途中にも、金比羅山についての解説があります。(手書きで読みやすい)
しかしこの金比羅山と神社、成り立ちについてはっきりと分からないことがいくつかあります。
◆山はいつできたのか?
・掘った時の土砂を利用した説
この場合、玉川上水開削時(1653年)からそれほど時間は経たずにできていたはず。
・砂川家(砂川村名主)が屋敷裏手の水田を作った時に、掘りあげた土でできた説
この場合、江戸中期以降の可能性が。
・「この金毘羅山は江戸時代に流行した富士塚ではないかといわれています。」と解説がある
富士塚作り、富士信仰が流行したのは江戸中期。
これらの情報すべてに矛盾が出ないように考えてみるならば、
開削直後、掘った土砂である程度の山ができていた
↓
富士信仰が流行した頃に、水田を掘りあげた土を利用して富士塚として仕上げた
こんなところでしょうか。全く推測の域を出ませんが。
※『立川市立第九小学校 創立130周年記念副読本 はばたけ 砂川っ子』に「1860年ごろにつくられたといわれています。」との記述あり。ただしこれは山ができたタイミングではなく、勧請したタイミングだと思われる。後述。
ちなみに、玉川上水駅から多摩都市モノレールに乗ると、天気の良い日はばっちり富士山が見えます。
ということから考えて、頂上から実際に富士山が見えていた可能性はかなり高いのではないかと。
(現在は周囲に木が茂り過ぎていて難しい。)
◆勧請について
文政年間(1854〜1860)に砂川村の名主 砂川家が願主となり、頂上に富士浅間、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。特に金比羅様は玉川上水で舟運が行われ(近くに巴河岸跡)た頃、舟神様として祀られ それからこの山は金比羅山と呼ばれるようになりました。現在はこの解説と異なり、頂上に浅間神社と金比羅神社が、中腹に秋葉神社がある。
また、手元にある立川のむかし話にも、
金比羅山の中腹には、小さなお堂があって、金比羅さまが、また頂上には、小さなほこらがあって、浅間さまがまつられています。とあります。
この文章は昔話を記述した部分ではなく、現在の様子を描写した文章として書かれていました。1977年(昭和52年)出版の本ではありますが、その時点で金比羅さまのお堂は中腹にあったのでしょうか…?
ちなみに浅間さまは富士信仰の神、秋葉さまは火防の神、金比羅さまは海上交通の神です。
江戸時代に富士信仰、金比羅信仰はかなり流行し、秋葉さまも火伏せの神としてメジャーな存在。
しっかりと流行をおさえていた、ということでしょうかね。
◆金比羅山と呼ばれるようになった時期について
舟運が行われた頃から金比羅山と呼ばれるようになったというのが正しいとすると、明治初期ということになります。*1
それより前には呼ばれていなかったのでしょうか?
もう少し、この金比羅山に関する資料を探し、調査していきたいところです。
頂上にある金比羅神社。
さて、昔話によると、諸国を旅していた金比羅さまが休憩に立ち寄った山がこの金比羅山だそうです。
山から見下ろすと目の下に玉川上水のゆたかな水の流れが見えたので気に入り、この山に住むことに決めたのだとか。
現在、頂上の周りにはたくさんの樹木が鬱蒼と生い茂っていて、残念ながら玉川上水の流れを見ることができません。
この昔話が生まれた頃には、頂上から流れを見ることができたのでしょうか。
*1 玉川上水で舟運が行われていたのは1870年(明治3年)〜1872年(明治5年)の2年間のみ